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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 1
軽大王の遺体が、大殿の前庭に設けられた殯宮(もがりのみや)に移された日から、飛鳥派と難波派の激しい主導権争いが始まった。
飛鳥派の大王候補は、中大兄である。
対する難波派は、大王候補として間人大后の名を挙げた。
難波派としては、軽大王の遺児 ―― 有間皇子を奉じたかったのだが、彼が14歳と年が若かったため、軽大王の大后であった間人皇女を次の大王に推挙したのだ。
飛鳥派は、中大兄が軽大王の大兄であり、乙巳の変の一番の功労者であるとして強く推した。
難波派も、間人皇女が軽大王の大后であり、軽大王の政策を傍らで見てきたので、前政権の路線を継承できると主張した。
このような舌戦は、始めのうちこそ理論立てて、互いに誠意を持って進められるのだが、これが中盤になると、互いの政策を非難し合い、最終的には互いの人格を否定するような発言が飛び交うものである。
結局、飛鳥派と難波派の争いも、他の例に漏れず、間人大后は無能だとか、中大兄は独善すぎるとかの言い争いになってしまった。
だが、この論争に待ったを掛ける人物がいた ―― 中大兄と間人大后の母親で、元大王の宝皇女である。
大王候補に二人の子供の名前が挙がっていると聞いた時の彼女の第一声は、
「間人を大王にすることは、絶対に許しません!」
という激しいものであった。
これを聞いた多くの群臣が、宝皇女は、御兄妹での後継者争いを御懸念なさっているのだと噂し合ったのだが、これは彼らの思い違いであった。
宝皇女としては、間人皇女を本当に大王の位に就けたくなかっただけで、中大兄がどうなろうと知ったことではなかったのである。
なぜ彼女は娘を大王の位に就けたくなかったのかというと、もちろん、娘に大王の激務を経験させたくはないという思いもあったろうが、何よりも蘇我氏の怨念を恐れていたのである。
彼女は信じていたのだ………………大王は、蘇我氏に呪われている、と。
あの日、飛鳥中に響き渡った蘇我の怨みの声を、彼女はいまもって忘れられないのだ。
―― 大王になれば、私の可愛い間人は取り殺される。
それだけは、絶対避けなくてはならない。
そこに飛鳥派だとか難波派だとかの思惑はなかった。
ただただ、娘の将来を案じる母がそこにいたのだ。
しかし、主導権争いで躍起になっている連中に、そんな宝皇女の気持ちなど分かるはずもなく、これで飛鳥派が勢い付き、難波派は守勢に立たされることになる。
と言って、難波派がこのまま黙って引き下がるわけもなく、首領格の巨勢徳太が、宝皇女の直談判に乗り出した。
一方、宝皇女にしてみれば親心で発言したまでで、その発言が権力争いの道具に使われることに釈然としなかった。