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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 3

 鎌子が寝室に戻った後、智仙娘が酒を運んで来た。そして、御食子に酒を注ぎながら言った。

「すみません、私が甘やかしてしまって」

「いや、私もあの子のことをお前ばかりに押し付けてきたからな」

 彼は、一息で酒を飲んだ。

「しかし、このままでは中臣の名は継がせられんな」

 智仙娘の酌をする手が止まった。

「では、枚夫に継がせるのですか?」

「仕方あるまい。枚夫の方が年上だし、それに祭祀に関して真摯に取り組んでいる」

「そんなことはありません。鎌子もやればできる子です。ただ、いまはなかなかその気分が起こらないだけ。あの子が本気になれば、枚夫も舌を巻くことになるでしょう。ですから、なにとぞ後継者は鎌子に」

 なるほど、母の愛情か ―― 御食子はそんなことを思いながら、夫人の手にある銚子を取り上げて、一人手酌でやるのであった。

 中臣鎌子(鎌足)は、推古天皇の治世22(614)年8月15日、中臣御食子連と大伴咋子連(おおとものくじこのむらじ)の娘、智仙娘の長子として生まれた(『多武峯縁起(とうのみねえんぎ)』)。

 ただ、鎌子の伝記たる『藤氏家伝』の1行目には「内太臣(うちつのおおおみ)、諱(いみな)は鎌足、字(あざな)は仲郎(ちゅうろう)、大倭国高市郡(やまとのこくのたけちのこおり)の人なり」とある。

 「仲郎」とは次男の意味であり、異母兄がいた可能性が高い。

 さて中臣氏であるが、津速魂命(つはやむすびのみこと)の孫、天兒屋命(あまのこやねのみこと)を始祖とする一族であったらしい。

 天兒屋命は、天照大神が素戔鳴尊の乱行に立腹し、天石窟に隠れた折に、かの神を石窟から出すための祭事を取り仕切った神である。

 以後その子孫は、朝廷内の神事を取り仕切る一族となった。

 どこから実在する人物かは明確にできないが、『中臣氏系図』に、黒田大連(くろだのおおむらじ)の息子、常盤大連(ときわのおおむらじ)が欽明天皇より中臣姓を賜ったとある。

 中臣常磐の息子は可多能古大連(かたのこのおおむらじ)で、この可多能古には、御食子・國子(くにこ)・糠手子(ぬかてこ)の三兄弟がおり、御食子の家系は後の藤原氏に続いていき、残りの家系が朝廷内で神事を取り仕切った大中臣(おおなかとみ)・中臣を引き継いでいった。

 中臣とは、本来、神と人の間を取り持つという意味があるらしいが、神事を取り仕切ったことからこの名前が付いたのであろう。

 ただ、彼らが取り持つのは神と人だけではなかった。

 彼らの主な職は、大王と臣下の間を取り持つ前事奏官、つまり臣下の言葉を大王に伝奏し、大王の言葉を臣下に下達することであったらしい。

 『中臣氏系図』には、御食子が前事奏官兼祭官であったと記載している。

 祭官として大王の傍に仕えていたから前事奏官となったのか、前事奏官で傍に使えていたから祭官となったのかは分からないが、この前事奏官は、大王の言葉を直接聴くことができるので、重要な職であった。

 ただ中臣氏は、あくまで大王に使える連集団、即ち家臣団の一氏族に過ぎず、同じ連姓を持ち、武力で大王に使えた大伴・物部氏のような政治的権力は持っていなかった。

 ところで鎌子の名前であるが、『日本書紀』には、彼の名前は当初から「鎌子」であり、彼が「鎌足」と呼ばれるようになるのは、孝徳天皇から紫冠と封八千戸を賜った時からであるので、彼の本名は「鎌子」であったのだろう。

 または、「子」や「足」は尊称であるという見方もあるので、「鎌」と呼ばれていたのかもしれない。

 彼の出自であるが、これは謎が多い。

『藤氏家伝』は、彼を「大倭国高市郡」の出身としている。しかし、『多武峯縁起』では、「大和國高市郡大原藤原第(てい)」の生まれとしながらも、「常陸國鹿島郡(ひたちのくにかしまのこおり)」の出身という説も記載している。

『大鏡』は、彼が常陸国出身としている。

『常陸國風土記』にも、常陸と中臣の関係を記している。

 また、鹿島神宮の宮司も大中臣氏が受け持ち、その後、中臣鹿島氏が定着している。

 鎌子が常陸國出身者であったかどうかは定かではないが、中臣氏が常陸と何らかの関係にあったことは間違いないようだ。

 なお、藤原氏の庇護を受けた春日大社は、本殿に四柱を祀るが、その第一殿には鹿島神宮から迎えた武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀っている。因みに、藤原氏の始祖であるといわれる天兒屋根命は、第三殿に祀られている。

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