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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 82
三月十二日に、越中にあった佐々成政と神保長住らが、その様子を報せるためにと、献上品の馬九匹を引き連れて安土にやってきた。
柴田勝家率いる越前衆は、いまだ京にあり、久々の都を楽しんでいた。
その隙をつかれた ―― 上杉景勝が越中に侵攻し、小井手を囲んだ。
報せを聞いた殿は、すぐさま勝家らに出陣を促し、勝家と越前衆、成政、長住らはすぐさま北上。
織田勢の引き返しがあまりに早かったので、これはまずいと思ったのか、上杉勢はすぐさま城の包囲をといて越後へと帰陣、小井手は事なきを得た。
同じ頃、東海でも動きがあった。
高天神城を守っていた城方は、武田からの援軍もなく、兵糧も尽き、半数が餓死、最早これまでと、城将岡部元信が残った兵に『この城に入った時から生きてでようと思ったことはない。武田の御恩に報いるために、討って出る!』と、別れの盃を交わした。
天正九(一五八一)年三月二十五日亥の刻(午後十時)、元信らは出撃、最も手薄とみられた石川康通(いしかわ・やすみち)の陣に突進、徳川方の大久保忠世(おおくぼ・ただよ)、大須賀康高(おおすが・やすたか)と激戦を繰り広げた。
このとき、元信は自ら先陣に立ち、徳川方に突入してきたらしい。
これと初めに刃を交えたのは、忠世の弟大久保忠教(おおくぼ・ただたか)であったが、まさか総大将が先陣をかけて飛び込んでくるとは思っておらず、これを躱して、家臣の本多主水(ほんだ・もんど)に任せると、前に進み出たらしい。
元信と主水は取っ組み合いとなり、激しく戦ったが、最後は組み合ったまま坂を転がり落ち、元信が力尽きたところで、主水の脇差が首をとらえたとか。
あとで、あれが元信だったと聞いた忠教は、ひどく悔しがったとか。
討ち取られた首は、七百あまり。
斯くて高天神は落ち、家康の手に落ちた。
家康から、元信の首が送られてきた。
しっかりと化粧を施された元信の首は、食べるものが乏しかったせいか頬がこけていたが、齢七十と聞いていた割には、髪にもまだ黒いものが残り、顔にも皺が少なく、まだまだ戦えるぞと言わんばかりに目をかっと開いて、大地を睨みつけていた。
黒目が大地を向いているのを〝地眼〟という。
「〝地眼〟でござりまするな、吉相でござりまする」
乱が言った。
「うむ、織田家にとっては吉、しかし武田にとっては……」
殿が、太若丸を見る。
武田家は、〝地眼〟を凶相とみる ―― ちなみに、この反対の〝天眼(黒目が上に向く)〟は通常忌み嫌われるが、武田家では吉相である。
そう答えると、殿は嬉しそうに頷いた。
「此度の一件で、武田は助力も出せぬと世に知れ渡った。武田の命運も、これにて尽きるかのう? しかし、岡部も無念であったろうのう、助力さえあれば、まだまだ戦場を駆けておったかもしれぬ。彼ほどの武将、儂なら喜んで助力を出すぞ」
元信が、高天神城にあって徳川方を散々苦しめたから言っているわけではない。
殿と元信には、それ以前からの縁である。
元信は、もとは今川家の家臣である。
殿と今川家といえば、桶狭間の戦いである ―― 殿は、今川家当主義元を討ち取り、首級をあげる。
元信は、今川家家臣として鳴海城にいた。
信長は、鳴海城を攻めるも、なかなか落ちない。
だが、主人を失い、ごたごたしている主家からの助力は期待できない。
ならばと、元信は城を明け渡す ―― その条件として出したのだが、主君義元の首の返還である。
その忠義心に、信長はいたく心を動かされ、これを許したという。
元信は、義元の首を入れた輿を先頭に、鳴海城から堂々と退いたという。
さらに、帰りがけの駄賃と、水野信近(みずの・のぶちか)の居城刈谷を攻め、これを討ち取ってしまったとか。
武田の駿河侵攻により、当主今川氏真(いまがわ・うじざね)は駿河を追われたが、元信は最期までこれに付き添ったらしい。
その後、武田と和睦したが、最早氏真には今川家を再興する力もなく、元信も武田家の家臣になったという。
武田家にあっても、その忠義心と軍才が如何なく発揮され、外様扱いでありながらも、高天神城を任された。
これほどの武将をむざむざ見殺しにしたのである。
勝頼にとっては大打撃であろう。
「岡部の首は、丁重に葬ってやれ」
「畏まりました。それで、この勢いにのって、武田を攻めまするか?」と、乱が訊ねる、「三位中将様(信忠)は、いますぐにでもとのお考えのようで、斯様な書状がまっておりまするが」
「うむ……、思ったよりも甲斐が弱腰だな。これでは、羽林(徳川家康)、相模(北条)との均衡は保てまい。調子にのって、羽林や相模が甲斐まで進み出て、これを落とすやもしれぬな。甲斐を、喉から手が出るほど欲するのは儂もそうだが、羽林や相模も同じはず。そうなる前に進みでるか……、勘九郎(信忠)には、いつでも出陣できる仕度をなせと伝えよ」
乱は、「畏まりました」と、信元の首を携え、下がっていった。
吉凶といえばで思い出した。
例の左大臣の一件である。
断る理由として、帝の譲位、誠仁親王の即位を条件に、左大臣への就任を受けるという条件をつきつけたが、朝廷側がこれを呑んだために、面倒な話になった。
そこで、太若丸が色々と調べた結果、
「なんぞ、よき理由(わけ)があったか?」
今年は金神である ―― 土木、建築、旅立ち、移転、嫁取りを忌む ―― 譲位には不向きである。
譲位すれば、現帝は別の場所に移らねばならず、親王も即位すれば御所に移動しなければならない。
吉凶を気にする公家衆が、これを拒否して譲位を行うことはあるまい。
この調子で、引き伸ばしていくしかない。
「うむ、早速朝廷(みかど)へ伝えよ」
すぐさま上奏され、いとも簡単にこれは受け入れられた。
どうも、朝廷のほうでも陰陽寮から〝金神〟であるので、避けた方がよいと予め聞いていたようだ。
それならそうと、そっちから断れば良いものを。
自ら言い出したことだから、引っ込みがつかなくなったか?
まったくやんごとなき方がのすることは………………と、殿もため息を吐かれた。
「まったく、殿上人につきあっていると疲れるわい。少々気晴らしをするかのう」
鷹狩りか?
それとも、遠乗りか?
「うむ、久方ぶりに竹生島まで遠乗りにでも行くか?」