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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 104
太若丸が、片付けを終えた後に寝所を覗くと、信長と乱があられもない姿で抱き合いながら寝息を立てていた。
よく寝ている………………何時か?
もう子の刻を回ったろうか?
耳を澄ましても、風音さえしない。
そっと信長の顔を覗き込む。
あと少しで、この首が飛ぶのだ。
長年見てきたこの首が。
そして今日こそ、太若丸は十兵衛のもとへ飛び立てるのだ。
長かった………………十兵衛に言われて、信長のもとについたが、あまりにも長かった。
長すぎて、一生このままかと思っていたが、ようやく十兵衛の傍に仕えることができる。
天下を取るのは十兵衛である。
神になるのも十兵衛だ。
信長は勘違いをしている ―― ぜす(イエス)が磔にあったとき、ふたりの罪人のうち、ひとりはぜす(イエス)を神の子と信じて、その後天国へ行き、聖人となった。
それが吾である!
このまま寺を抜け出そうとすると、ふと目覚めた乱と目があった。
にこりと笑い、
「どうなされました? さあ、太若丸様もこちらに」
と、誘ってくる。
ここで逃げれば怪しまれる、仕方がない………………
太若丸は、信長の右に体を横たえた………………もうひとりの罪人は、おぬしだ、乱!
吾は、十兵衛とともに………………一段一段とゆっくり石段を上がり、頂に着くと、手にした袋より取り出した信長の首を天に捧げ、神となる十兵衛とともに天へと昇天し、その玉座へと腰を下ろす十兵衛の右に座るのであるが………………地上を見下ろすと、かちゃかちゃと滑稽な音を立てながら小さな侍たちが戦をしていた、すると十兵衛が徐に立ち上がり、手を下界までのばすと、ぐるぐると掻きまわし、その戦を治めてしまう、流石だと思って横顔を見ると………………猿? 狸?
化かされた?
………………と、思ったところで目を覚ました。
少しうとうとしていたか?
しばらく呆然と天井を見ていると、こんなことしている場合じゃないと起き上がる。
障子の向こうは、薄っすらと明るい。
誰だろうか………………廊下を右往左往しているやつがいる。
何事か………………と聞くまでもないだろうが、何事かと訊ねると、障子がわずかに開いて、弥助の黒い顔がぬっと入ってきた。
「てき! てき!」
と、叫ぶ。
あい分かったと後ろを見ると、すでに信長と乱も起き上がり、目を擦っている。
「弥助、如何にした?」
「てき! てき!」
と、叫ぶだけ。
埒が明かんと、後ろを慌てて通り過ぎようとした小姓をつかまえ訊ねると、
「敵にございます」
と、はっきり答えた。
「敵? 誰じゃ? まことか? 勘九郎が、朝餉を食いにでもやってきたのではないのか?」
「三位中将様ではございませぬ。数百という兵で、周辺を囲まれております」
「どこの兵じゃ? まさか、狸に感づかれたか? 旗印は見えるか?」
「水色の旗地に、白染めの桔梗文にございます」
信長は寝起きのせいか、しばらくぼっとしていたが、
「十兵衛か?」
と気が付いた。
「何かの間違いであろう? まことに十兵衛か? もしや使いが間に合わず、間違えて攻めてきたか? 十兵衛の兵に伝えろ、襲撃は明日と」
そうしているうちにも、表門の付近でどんどんと大きな音がしたかと思ったら、
『表門が破られた! みなこちらに回れ!』
『開いたぞ! ゆけ!』
『防げ! 一兵たりとも入れるな!』
『女子どもに構うな! 狙うは織田弾正の首だけだ!』
と、敵味方入り乱れての怒声が響き渡る。
信長は、それを聞きながらしばらく呆然としていたが、
「殿、表門を破られました、搦手も………………」
「是非に及ばず!」
と、小姓を叱りつけた。
「十兵衛め、やりおったわ……」、信長は表の騒ぎをかき消すほどの大声で笑った、「この儂を騙すとは、天晴よ! 天晴! 天晴! 流石は十兵衛じゃ!」
ようやく十兵衛に騙されたと気が付いたか。
「殿、ここは女房衆の格好をして、手の薄い搦手から脱出なされ、妙覚寺の三位中将様と合流いたしましょう」
乱の至極まっとうな進言に、信長は首を振る。
「十兵衛のことじゃぞ、この儂を屠るために、完璧に包囲しておるわ。逃げ道などない」
信長はぐるりと辺りを見回し、
「儂は神になるぞ!」
と、不敵に笑う。
「太若丸、乱丸、火をつけろ! 神となるこの儂の躰には、何人たりとも触れること許さん!」
刀を抜く。
「十兵衛に天下は取らせんぞ! 神になり、天下を征するは、この儂じゃ! 太若丸、乱丸、おぬしらふたりには、神の玉座の左右に座らせてやるぞ」
我々に、死出の供をしろというか?
するか!
乱はどうか知らんが、吾は生きる、十兵衛とともに。
こんなところ、いられるか!
逃げようと背中を向けた。
「太若丸、逃げるか!」
やられる………………と思った瞬間、刀は振り下ろされることなく、「うっ!」とくぐもった声が上がった。
振り返ると、刀を振り上げた信長の脇腹に、乱が槍を突き立てていた。
「乱丸……、おぬし……」
「殿、死ぬならおひとりでどうぞ。某は生きまする、太若丸様とともに……」
乱は、何度も何度も信長の脇腹を突く。
真っ白な襦袢が、みるみるうちに鮮血に染まっていく。
「お、おのれ………………」
信長は、刀を振って、突き立てられた槍の柄を切り落とし、乱丸に斬りつける。
悲鳴をあげて、床に転がる乱。
「お、おぬしも……」
信長は、抜き身をさげて、太若丸にじりじりとにじり寄る。
殺される………………、殺される………………
「おぬしも……」
信長が刀を振り上げた刹那、乱の脇差がその背中に突き刺さった。
「ら、ら、乱丸……、た、太若丸……」
口から、ごぼごぼと血が溢れる。
「儂は……、儂は……、神に………………」
信長は、しばし天を仰ぎ、ふらふらとしていたが、最後はただの棒っ切れのように、どたりと鈍い音を立てて倒れこんだ。
「おお……、極楽とは………………、かにも真っ暗か………………」
しばらく悶えていたが、やがてぴくりと動かなくなった。
やったか?
「太若丸様……」、振り向いた乱の顔には、血糊がべっとりと付着し、切り裂かれた胸元は血が滲んでいる、「さあ、行きましょう」
差し出した手も、血で染まっている。
行くって……、どこに?
「何を言っているのですか、某と太若丸様の極楽ですよ」
極楽………………何を言っているのだ、こいつは?
「さあ、行きましょう、ふたりっきりで、さあ、さあ」
真っ赤に染まった顔のなかに、ふたつの目だけが異様に輝いている。
な、なぜ、吾が、そなたと行かねばならぬのだ?
「なぜって……? 某は、ずっとお慕いしてきたのですよ、幼いころ、いじめられていた某を救ってくれた太若丸様を」
なんの話だ?
幼いころ?
吾とそなたが?
そんなことあったか?
そなたと会ったのは、信長の小姓となってからではないか?
すると乱が懐よりいつも使っている紅を取り出し、小指で唇に塗ると、
「これです」
と、太若丸の唇に重ねた。
柔らかいそれの感触に、頭の中が掻きまわされて………………ああ………………あのときか!
「思い出しましたか?」
あのときの稚児か?
「嬉しいです、思い出していただいて。某、あのころからずっと太若丸様の御傍にいられる日を夢見ていたのです」
まさか、あの泣いていた子が、乱だったなんて………………
「さあ、参りましょう、ふたりの極楽へ。我らが天下を取るのです」
あまりの驚きに、体が動かない。
『寺に火が回ったぞ!』
焦げ臭い匂いが鼻腔をつく。
早く逃げなくはならないのに………………だが、腰に力が入らない。
「さあ、太若丸様、お手を」
乱が、手を差し伸べる。
太若丸は、恐る恐るその手をとろうとしたが、鈍い音とともに、乱の腹から鋭い刃がのぞいた。
呆然とする乱の背後には、信長が。
怒りの形相で、乱を背中から串刺しにしている。
「い、行かせぬぞ、おぬしらは行かせぬぞ……」、ごぼり、ごぼりと血を吐きながら、「あんな真っ暗な場所に……、儂だけ行けというか……、行かせぬ……、行かせぬ……、おぬしらも道連れに………………」
「た、太若丸様、お、お手を………………」
ふたりは重なりあうように、崩れ落ちていった。
辺りが火に包まれる。
急がないと………………乱の手がびくびくと動いているが、かまうものか………………なんとか這いつくばって廊下に出る。
行かねば、十兵衛のもとへ、十兵衛のもとへ。
煙が充満するなかを力を振り絞って進むと、
「小姓がいたぞ! 弾正は、あっちだ!」
十兵衛の兵がやってきた。
「大丈夫か?」
明智左馬助である。
「権太殿か、良かった。十兵衛から、権太殿は何としてでも助け出せと厳命されていたからな。それで、弾正は?」
太若丸は、奥を指さす。
すでに、かなりの火が回っている。
「奥か! 弾正は奥だ! いけ!」
数人の兵が、脇を抜けて奥へと駆けていく。
『これはいかん! 火の勢いが強い!』
『怯むな! 進め!』
奥から怒声が聞こえてくる。
「誰かおるか?」
左馬助の問いかけに、
『おりませぬ! いや、誰か倒れておるぞ、ふたりほど!』
と、返答が。
「弾正か?」
左様ですと、太若丸が答えた。
「まことでございまするか?」
信長と乱の遺体だと答えると、
「もしかして、権太殿が止めを? お見事! 大手柄でございます」
勘違いされてしまった。
「おい、そいつらの首をとれ!」
左馬助が叫ぶと、奥から『駄目だ! 火が強すぎる!』『逃げろ、危ない!』と、兵たちが慌てて逃げてきた。
刹那、どんとまるで大砲(おおつつ)が弾けるような音が響き渡った。
「床が弾けて火があがったぞ!」
床下の火薬をまぶした薪が火を噴いたのだ。
「ここも危ない!」
太若丸は、左馬助に抱えられて外へと逃げた。
乱の弟たちや他の小姓たちも、あらかた討ち取られたようで、数人のものが捕まっているだけ。
そのなかに、弥助もいた。
彼は、寺を見上げ、顔を強張らせ叫んだ。
「とのぉぉぉぉぉ!」
振り返った瞬間、本能寺の瓦屋根ががらがらと崩れ落ちて、劫火に包まれた。
「天魔王、ここに滅するか………………、あっけないものだ」
左馬助の言葉に、まったくだと思った。
「残るはその息子か」
信忠のいる妙覚寺には、明智次右衛門を大将として、藤田伝五、溝尾庄兵衛らがすでにこれを取り囲み、第三陣の斎藤内蔵助もそろそろ駆けつけ、総攻撃をかけるとのことだ。
十兵衛は?
「本陣は鳥羽です、摂津の神戸らの動きを見ながら、十兵衛はそこで以後の策を錬っています。参りましょう、権太殿の活躍を知れば、お喜びしますよ」
鳥羽へと下った。