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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 93

「申し上げます!」

 湯漬けを食していた殿のもとに、近習が飛び込んできた。

「苦しゅうない」

「惟任(明智光秀)殿の使番より、三日には一手の衆が出陣、本日惟任殿が出馬とのこと」

「あい分かった、信濃で落ち合おうと伝えよ」

 次の近習が入ってくる。

「徳川殿、穴山殿を案内役として、二日には甲斐に侵出、市川に着陣とのこと」

「上々!」

 次の近習は、信忠の使番を連れてきた。

「戦況は如何に?」

 殿は、前のめりで訊ねる。

「御味方、勝利!」

「でかした!」

「討ち取った首は、仁科(盛信)をはじめてとして四百余り、死者は三千。のちほど、仁科の首が届くと思われます」

 殿は、上機嫌で頷く。

「されど、我が方にも犠牲者多数、その数千五百かと………………」、使番は殿の様子を伺いながら話す、「また、織田因幡守(いなばのかみ:信家(のぶいえ)、信長の従兄弟)様も奮闘虚しく………………」

 殿は、深いため息を吐かれたが、

「戦じゃ、武人が戦場で亡くなり、何を悲しもうぞ。勘九郎に伝えよ、残された妻子の世話をよくよくしてやれと」

「畏まり候」

「それで、勘九郎は今は如何様に?」

「高遠を落とされた後、そのまま上諏訪まで進み出て、その一帯を焼き払い、さらに韮崎(新府)に向かっておられます。また諏訪湖のほとり高島には、織田源三郎様(勝長)がご入城」

「坊丸も上々、上々!」、息子たちの活躍が相当嬉しいみたいだ、「ただし、勢いにのることは良いことじゃが、何事にも慎重にあたれよと、皆に伝えよ」

 信忠の使番と入れ替わるように、木曾方面からの報せが入ってきた。

 鳥居峠に布陣していた軍勢は、深志まで侵出し、城将馬場昌房(ばば・まさふさ)が首を垂れたらしい。

 深志には、織田長益が入城した。

 最後に入ってきた報せは、吉報中の吉報である。

「武田の城(新府)より火の手があがったとのこと」

 間者の話では、三日の卯の刻(午前六時頃)から一筋、二筋と煙が上がったかと思ったら、城の各所から火の手があがり、瞬く間に城を呑み込んでしまったとか。

 武田の居城は、甲斐武田十五代信虎(のぶとら)が築城した躑躅ヶ崎にあった。

 徳栄軒信玄こと晴信の代には城下町として栄えたが、勝頼はここを捨て、韮崎へと屋敷を移したのは、昨年末のことと聞く。

 その新しい城が燃えたという。

 屋敷はいまだ普請の最中で、ここでは攻め寄せる織田勢を防ぎきれないと思ったのだろう、自ら火を点けたらしい。

 ここには多くの人質が集められていたが、これごと火を点けたため、韮崎には彼らの悲鳴が響き渡ったとか。

「酷いことを。それで武田の〝小猿〟はどうした?」

「夜陰に紛れ、一族郎党を伴って城を出た模様、その数は二百余り。いま跡をつけさせておりまするが、恐らく行き先は躑躅ヶ崎(古府)かと」

「左様か、哀れよのう……」、殿はしばし感慨に浸っていたようだが、思い出したように湯漬けをかきこむと、「武田の命運、ここに尽きた! 儂も出るぞ!」

 三月五日、殿は大和衆らを引き連れ、安土を出馬した。

 近江の柏原を通り、翌日には呂久の渡しで仁科盛信の首を検分、その首を長良川の河原に晒し、そのまま岐阜へ、翌日は雨のために足止めをくらったが、八日には犬山に入った。

 殿が、柴田勝家に越前のことは油断なくというような書状を書いていると、信忠から報せが入った。

 七日には上諏訪から甲斐へと入ったそうで、躑躅ヶ崎にはすでに勝頼らの姿はなかったそうだ。

 そこで、残っていた武田一門や家臣らを探し出し、これらをみな成敗したらしい。

 また信忠が甲府入りしたことを聞きつけた周辺の地侍たちが、ぞくぞくと出頭してきたそうだ。

「〝小猿〟は、どこに逃げたか?」

「いま、探させておりまするが、恐らくは早々に見つかるかと」

「うむ……、たとえ落ちぶれたとしても、守護職の家柄、無様な最期は迎えることもなかろうが、たとえ捕えたとしても、丁重に扱うようにな」

 翌日は金山に、十日は高野と進み、ようやく十一日になって岩村まで来た。

 戦場に向かうにしては、随分と足が遅い。

 普段の殿なら、一昼夜で甲斐へと入る………………までは大げさだが、そのぐらい急いで駆けていくはずだが、随分ゆっくりとしている。

 やはり、歳か?

「まあ、それもあるが……」と、殿は笑っていたが、「儂が急いで出て行っては、勘九郎も思うように活躍できまい。あれも、織田家の当主として、己の思い通りにやりたかろうからのう。儂はあくまで、物見遊山じゃ」

 その夜、柴田勝家からの使番がやってきた。

 神保長住(じんぼ・ながずみ)が城代として入っていた富山を、反織田方の小島職鎮(こじま・もとしげ)、唐人親広(かろうど・ちかひろ)に急襲を受け、長住は捕らえられ、そのまま乗っ取られたらしい。

「やはり、動いたか。して、修理亮らは?」

 柴田勝家、佐々成政、前田利家、佐久間盛政(さくま・もりまさ)らが、すぐさま富山を取り囲んだそうだ。

「落城も、まもなくかと」

「修理亮には、何事も油断なくと伝えよ」

 勝家の使番が立ち去ると、信忠の使番がやってきた。

「申し上げます、武田親子、討ち取りました!」

 殿が岩村に着陣した同じ頃、勝頼らの行方を捜していた滝川一益らが、彼らが駒飼に逃げ込んだと報せを聞き、急襲。

 勝頼ら一門は、田野の民家の周りに柵を設けて籠っていたそうだ。

 城を出るときにいた二百余りの一族・郎党も、すでに百にも満たない状況 ―― その半数が女子どもだったらしい。

 これを滝川一益とその家臣篠岡平右衛門(ささおか・へいえもん)らが取り囲んだ。

 これを見た勝頼らは、ここが武田家最期の死地と、自らの手で妻子らを刺し殺し、めいめい討ってでた。

 勝頼に別れを告げられた側室の北条夫人(北条氏政の妹)は、北条氏に戻るという道もあったろが、武田家の嫁として最期を遂げる ―― 辞世の句


  黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき

   思いにきゆる 露の玉の緒

   (黒髪が乱れたように、この乱世は果てしない

     我が君への想いとともにきえてゆくよ、露の玉のようなこの命)


 勝頼の若衆である土屋昌恒(つちや・まさつね)などは、何度も弓を番え、それが尽きれば抜き身で突進し、多くのものを倒したが、最期は力尽きると自ら腹をかき切ったそうだ。

 また、勝頼の息子信勝(のぶかつ)も、武人として立派な最期を遂げたとか ―― その歳十六とも ―― ちなみに、信勝の母は龍勝院(りゅうしょういん:元亀二(一五七一)年に死去)であり、信長の姪で、養女となって武田と織田の同盟の証として勝頼に正室として嫁いだのだが………………

 武田家の次期当主として織田家の血を持つ信勝を指名したり、人質としていた信長の五男を送り返したりと、勝頼は織田家との和与を模索し、そこに望みをかけていたのかもしれない。

 だが結果は、武田の一族・郎党四十一人 ―― 釣閑斎光堅(ちょうかんさい・みつかた:長坂虎房(ながさか・とらふさ))、秋山光綱(あきやま・みつつな)、小原忠国(おばら・ただくに)、弟の継忠(つぐただ)、跡部勝資(あとべ・かつすけ)、その息子昌出(まさいで)、安部宗貞(あべ・むねさだ)、土屋昌恒(つちや・まさつね)、大龍寺麟岳(だいりゅうじ・りんがく)ら ―― 女子ども五十人、死出の旅路をともにすることとなった ―― 天正十(一五八二)年三月十一日、巳の刻(午前十一時頃)のことである。


  朧なる 月のほのかに 雲かすみ

   晴て行衛(ゆくえ)の 山の西の端(は)

   (ほのかに雲がかかっていたおぼろ月が晴れていくよ

    西方浄土を指し照らし進んでゆくように)


 甲斐源氏二十代目当主であり、甲斐武田氏十七代目当主である武田四郎勝頼、三十七歳の辞世である。

 甲斐守護から甲斐、信濃、駿河まで支配した名門武田家の嫡流は、ここで潰える。

 織田勢が、武田領へと侵攻してわずか一カ月あまり………………あまりにもあっけない幕切れであった。

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