【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 5
宝大王の庭の橘は、今年もその小さな白い顔を覗かせ始めていた。
「橘には、まだ早い季節でしたわね」
額田姫王は橘の枝木を手に取り、その蕾を眺めた。
「そうね、でも、あと2、3日もすれば香り立って咲き誇るでしょう。額田、こちらに来てお酒をどうぞ」
宝大王の誘いに従って、額田姫王は庭先の椅子に腰を降ろした。
「大王へのご即位おめでとうございます」
「ありがとう」
2人は杯を掲げ、飲み干した。
「でも、びっくりしましたわ、また大王になられたなんて」
「なったんじゃないの、ならされたのよ」
「そんな……、全て大王様のご人徳のなせる業ですわ」
「ありがとう、そう言ってくれるのは額田だけよ。他の者は、また女が大王になったと言って、煙たがっているのよ」
「それは大王様に嫉妬しているのですよ。男の人って、大して才能もないのに、女の上に立ちたがりますからね。才能のある女性に嫉妬しているのですよ。男の嫉妬ほど、性質の悪いものはありませんが。でも、私は尊敬しているのですよ。姉とも話しておりますもの、大王様は女の鏡だと。男の中に混じって、何でもこなされるのですから」
「ありがとう。でも、良く考えたら、男は女から生まれるのだか、もっと尊敬されても良いはずよね」
「ですが、種がなければ実はならないと男の人は言うでしょうね」
「あら、種があっても、畑がなければ蒔けないでしょ」
「まあ、大王様、それはちょっとお下品ですわ」
2人は、顔を見合わせ笑った。
「でもね、愛のある夫婦生活が女にとって一番の幸せだとは言いたくはないけれど、やはり、愛がないと女は全てにおいて満たされないものなのよ。間人には、無理な結婚をさせたものだから、これ以上の不幸を背負わせたくなかったの」
春風が、宝大王と額田姫王の御髪を揺らす。
「ところで、額田、お前は如何なのですか? 満たされているのですか? 聞けば、大海人は大田(おおた)と讃良(さらら)を妻にする代わりに、十市を大友に嫁がせたというではないですか」
「ええ、中大兄様のたっての願いということで、私も中大兄様のお傍に仕えることとなりましたが……」
「娘たちと母子の交換ですか? 全く、葛城といい、大海人といい、何を考えているのか」
宝大王は、自分の息子たちの理不尽さに腹を立てていた。
「あら、噂をすれば、そのお二人が」
橘の庭に入って来たのは、中大兄と蘇我倉麻呂の次女 ―― 遠智媛の子供たちである大田皇女と讃良皇女、そして建皇子(たけるのみこ)であった。
「お祖母ちゃま、遊びに来ました」
建皇子が、宝大王の胸に飛び込んだ。
「おお、良く来たわね。大田に讃良も、いらっしゃい」
宝大王は、2人を手招きした。
「お祖母様」
讃良皇女もその胸に飛び込んだ。
大田皇女も駆け寄って来たが、傍らに額田姫王がいると分かると眉を曇らせて、お辞儀をした。
どうやら大田皇女は、額田・十市親子と大田・讃良姉妹の交換の経緯を、ある程度は理解しているらしい。
建皇子は庭を走り回り、宝大王と讃良皇女は彼を追い駆け回した。
額田姫王と大田皇女は、それを座って眺めていた。
2人の間を冷たい風が吹き抜ける。
「あの……、額田姫王、ごめんなさい。あなたたち親子を追い出したようになってしまって……」
額田姫王は、大田皇女の顔を見た。
額田姫王の顔は厳しい。
「それは、私に対する勝利宣言ですか?」
「えっ……、違うの、そんな……、私、そんなつもりじゃなくて……」
大田皇女は、いまにも泣き出しそうである。
「……戯れ言です、戯れ言。気にしないで下さい」
額田姫王は、優しく微笑んだ。
それでも、大田皇女の目には涙が溜まっている。
―― そうか、この子達も犠牲者なのよね。親の言い成りで夫を決めなくてはならないなんて………………
「大田様、女というものは悲しい生き物ですわね。夫や家柄、親兄弟に縛られて。でも、だからこそ、その中で自分を強く持ちたいと願うものなのです」
「自分を強く?」
大田の目から、一滴の涙が零れた。
「ええ、男の人は頑固だから、自分を変えたがらないけど、それは強さではありません。本当の強さとは、自分を変化させていける心を持つことです。夫が光を欲すれば大地を照らす太陽に、渇きを訴えれば富を齎す雨に、子供が乳を望めば牛に、危険に曝されれば獅子に。女は何にでもなれるのです。私はいま、中大兄様の妻です。あなたも、誰に遠慮することはないのですよ。確りと、大海人様を愛してあげてくださいませ」
「額田……」
「さあ、涙をお拭きになってくださいませ。あなたが泣いていると、お祖母様が心配なさいますわ」
額田姫王は、そっと大田皇女の涙を拭ってやった。
「そうだ、大田様に良いことを教えて差し上げますわ、大海人様が喜ぶことです。これをすれば、大海人様の愛は大田様だけのものですわ」
「本当?」
「本当に!」
額田姫王は微笑むと、大田皇女に耳打ちした。
それを聞いていた大田皇女の顔は、見る見るうちに赤くなった。
「本当にそんなことをするの?」
「本当ですわ。これをすれば間違いはありません」
額田姫王は、もう一度、優しく微笑んだ。
讃良皇女は、先ほどから建皇子が空を見上げているのが気になった。
「建、どうかしたの?」
建皇子は空を指差した。
「人が飛んでる」
その声に、讃良皇女だけでなく、宝大王や額田姫王、大田皇女も空を見上げた。
空には、彼女たちを見下ろしている男がいた。
宝大王は卒倒した。
斉明(さいめい)天皇の治世元(655)年5月1日、龍に乗り青い油笠を着た唐人が、葛城山の空に出現し、生駒山の方へ飛んでいったのを多くの人が目撃した。
同じ日の昼には住吉に出現し、西に飛んで行くのが目撃された。
『扶桑(ふそう)略記(りゃっき)』に曰く ―― 人々は蘇我蝦夷の霊だと噂しあった ―― と。
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