閑窓随筆 ~『法隆寺燃ゆ』法隆寺は誰が作ったの?
現在の法隆寺の西院伽藍の東南 —— 普門院の奥に、3メートル近い大石が静かに鎮座しています。
創建当時のものと伝えられる塔心楚(五重塔の中心の柱を支える石)です。
この塔心楚は、延享3(1746)年の『古今一陽集(こきんいちようしゅう)』(良訓撰)にもその存在が描かれていますが、ひょんなことから明治の半ばに外部に流出して、昭和14(1939)年に、再び法隆寺に戻ってくるという数奇な運命を歩みました。
法隆寺に戻ってきた際、この心楚を元あった場所に設置しようと発掘調査が行われ、同年10月に現在の場所に塔があったことが確認されて安置されました。
その後、12月から本格的な発掘調査が行われ、南北に金堂と五重塔が並ぶ、いわゆる四天王寺伽藍が確認されました。
これが、創建時の法隆寺の姿といわれている若草伽藍(わかくさがらん)です。
ちなみに、現在の法隆寺は中門を入って右手(東側)に金堂、左手(西側)に五重塔という、独特の伽藍様式(法隆寺伽藍)です。
確認された若草伽藍の塔跡は、一辺が約15メートル、金堂跡は間口約22メートル・奥行約19メートルであったようです。
そして最大の特徴は、若草伽藍の南北軸が、現在の法隆寺の南北軸に比べて、約17度西に傾いていたことです。
その軸ぶれは、東院伽藍で発掘された斑鳩宮跡の遺構の軸ぶれ(西へ約11度)に近く、また、西院と東院を結ぶ道の軸ぶれと同じでした。
法隆寺が再建されたかどうかについては未だ論争がありますが、現在の普門院の近くに、現法隆寺と同じ規模の寺院があったことは偽りのない事実のようです。
ところで、法隆寺は誰が、どのような理由で創建したのでしょうか?
多くの人は、法隆寺は聖徳太子が創建したと思っていますよね?
ですが、聖徳太子が創建したという確たる証拠はありません。
法隆寺金堂の薬師如来像の光背銘文には、用明(ようめい)天皇の治世元(586)年に、用明天皇が大病の併願を願って薬師像とそれを祀る寺の造営を発願しましたが、完成を見ることなく崩御したため、その意志を引き継いだ推古(すいこ)天皇と厩戸皇子が推古天皇の治世15(607)年に完成させたと記されています。
ただ薬師如来像は、中国においても北魏の孝昌元(525)年在銘の仏像が一つあるだけで、唐代以降にその信仰が盛んになったと考えられていますので、法隆寺の薬師如来像も日本で薬師如来信仰が盛んになった7世紀中期以降の作であろうという説もあります(田中嗣人『聖徳太子信仰の成立』吉川弘文館)。
また銘文自体も、後の追記と考えられていますので、この由縁は疑わしいと思われています。
『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』には、推古天皇の治世15(607)年に、推古天皇と厩戸皇子が法隆寺を含む7つの寺を建立した記事が見え、『日本書紀』にも、推古天皇の治世14(606)年に、厩戸王皇子が法華経を講読したのを、天皇が喜んで播磨国(はりまのくに)の水田百町を贈り、それを厩戸皇子が斑鳩寺に寄進したとあります。
『日本書紀』や後世の資料をそのまま鵜呑みにすることはできないのですが、斑鳩宮が推古天皇の治世9(601)年から13(605)年の間に建設されているので、同じ時期にやはり厩戸皇子によって建立された可能性は大きく、14(606)年当時には、ある程度、寺院として成り立っていたのではないかと思います。
では、何のために法隆寺は建立されたのかと言えば、斑鳩宮と同時期の建立なら、それは明らかに厩戸皇子の仏教探求のための寺であったと思います。
法隆寺を縁起とおりに用明天皇の病気平癒のためとか、恨みを残して死んだ者の魂を鎮めるための寺院として捉えている人も多くいますが(それが法隆寺の七不思議とか言われたり……)、それはあくまで寺院としての付随的な機能で、お寺の主目的は釈迦を祀るためのシンボルです。
また、当時の豪族が競って寺院を建立したのは、最先端の文化と技術を受け入れ、その権勢を示そうとするのが大きな目的でしたから、これらから考慮しても、当時の法隆寺は厩戸皇子が建立した仏教探求の寺、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によるところの「法隆寺学問寺」で間違いないだろうと思っています。
さて、『法隆寺燃ゆ』では、法隆寺ことを「斑鳩寺」と書いています。
が、題名は『法隆寺』です。
どちらが本当の名前なのでしょうか?
正式な名所は「法隆寺」です。
ですが、斑鳩寺と言っても間違いではないです。
要は当時の人が、どのように呼んでいたかということです。
飛鳥・白鳳時代には、地名に因む和風の寺院名と漢風の法号の寺院名の二つがありました。
おそらく、僧や貴人たちは漢風で呼び、一般人は地名で呼んでいたのだろうと思います。
ですから、法号の「法隆」寺であっても、地名の「斑鳩」寺であっても間違いではありません。
ただ、地名で呼ぶ場合は、「いかるがのてら」で、「いかるがじ」でも「いかるがてら」でもないようです(田村圓澄『飛鳥仏教史研究』塙書房)。
『法隆寺燃ゆ』といいながら、肝心の「法隆寺」のことについての説明がありませんでしたので、少し書いてみました。
引き続き、『法隆寺燃ゆ』をお楽しみください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上記の分は、いつもと少し書き方が違うと感じられるかもしれませんが、もともと『法隆寺燃ゆ』の中にあった文章を抜き出したものです。
ですので、かなり説明文くさくなっています。
歴史小説の難しいところは、少し歴史的説明をいれないと分からない人もいるだろうし(分かる人には分かるんですけど、そうなると作者の独りよがりになる可能性もあるので)、かといってあまりに説明くさい文章を入れると、その世界観に入り込めないという欠点もあるので………………
『法隆寺燃ゆ』を一番最初に書き上げたときは、かなり多くの説明分が入ってました。
noteに掲載中の『法隆寺燃ゆ』は、できる限り物語に没入してもらおうと、説明文を抜いています。
なので、歴史的用語とか分かりずらいかもしれませんが………………
それを補うために、『閑窓随筆』として用語説明などしています。