【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 8
鎌子が、旻の講堂に通うようになって数週間が過ぎた。
飛鳥で勉強したいと言った時には、父も母も喜んだが、それが司祭の勉強でなく、仏教や大陸の学問だと知ると、彼らは肩を落とした。
特に、父の御食子は、仏教や大陸の学問を退廃的な思想で、我が神国には馴染まないと考えて毛嫌いしていたが、息子が少しはやる気になったのを考慮して、これを認めてやった。
彼は、ひたすら勉強した ―― いままでの遅れを取り戻すために。
それだけではなかった。
彼は初めて気が付いたのだ。新しい知識を得ることが、どれほど楽しいことであるかということを。
彼は、ありとあらゆるものを学んだ。
それは、仏教から周易、孔子から孫子まで多岐に渡った。
人一倍、勉強した。
だからと言って、彼が飛切り優秀であるかというと、そういう訳でもなかった。
多くの人が、鎌子が一生懸命勉強する姿を見て、こうからかった。
「あいつ、木簡の海に溺れてるぞ」
しかし、彼にはこの海を渡り切る自信があった。
俺には旻様がいる。
溺れ掛かったら、必ず助けてくれる。
彼は、そう信じていた。
旻の講堂に来て、話相手もできた。
鎌子は、誰よりも遅くこの講堂に入ったために、席は一番後ろであったが、
その隣は大伴吹負連(おおとものふけいのむらじ)が陣取っていた。吹負の父は大伴咋子連(おおとものくじこのむらじ)で、鎌子の母、智仙娘は彼の姉にあたる。
即ち、彼らは年の近い、叔父と甥の関係であった。
因みに、大伴(おおともの)長徳連(ながとこのむらじ)は吹負の兄である。
吹負とは、難波にいた時に挨拶をする程度であったが、ここに来て急に親しくなった。
そして、飛鳥の大伴の屋敷も頻繁に訪れるようになり、酒の共をするまでになった。
鎌子はいける口である。難波津の盛り場で鍛えられていた。そして何より、酒宴の雰囲気が好きであった。
しかし、その鎌子にして、大伴家の酒宴で絶えられないことがあった。
それは大伴家が、いい出来具合になると歌を詠いだすことであった。
これには、鎌子は参っていた。
それまで心地よく酔っ払っていたのが、誰からか一節が始まった途端、彼の酔いは一変に醒めてしまうのであった。
彼は、歌が苦手であった。
他のことなら如何とでもなりそうだが、歌だけは持って生まれた才能が必要だった。
漢詩も、教養として覚えさせられた。
倭言葉の歌もやってみた。
しかし、彼が詠い出すと、決まって周囲の者たちは笑い出すのだ。
大伴家の酒宴の席上でも、毎回、
「お前は、相変わらず下手だな」
と、吹負の一言がある。長徳からも、
「俺の息子たちの方が、まだ、上手いぞ」
と言われ、最近では、その馬飼の息子の御行(みゆき)と安麻呂(やすまろ)からも、
「鎌子兄さん、全然成長しないね」
と言われる始末であった。
鎌子も、如何して武人のこの人たちがこんなに歌が上手くて、俺は駄目なのだろうと思うのだが、その実、自分の才能に半ば諦めているのであった。