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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 89

 師走に入って、織田一門や安土周辺の武将らが、金銀・舶来物・衣服などの土産をもって挨拶にやってきて、安土は賑わった。

 その中で、ひときわ珍しい顔があった。

 羽柴秀吉である。

 彼は、殿に小袖二百枚を献上した。

 もちろん、女房衆や小姓らにも土産を忘れなかった ―― 流石は人垂らしである。

「此度の鳥取の一件、ご苦労であった。褒めてつかわす」

 殿が、秀吉を褒めるなど、珍しいことだ。

「ありがたき幸せ」

 秀吉も、殿から褒められ、ひときわ喜んでいる。

 当然か、 鳥取を僅か四カ月あまりで落としたのだから。

 先の十月二十五日、鳥取は秀吉の軍門に下り、城門を開いた。

 出てきた一団は、まるで餓鬼道のそれであったという。

 もともと長く立て籠もるだけの兵糧もなく、それを運び入れる道も完全に封鎖され、あげく毛利の援軍もない次第………………むしろ、これほどもったのが不思議なぐらいだ。

 秀吉が語るには、鳥取に立て籠もった敵方は、食うものも早々になくなり、あとは牛馬を殺したり、草木を取ったり、それもなくなれば城内の草木の根っこまで掘り起こし、それまで食い尽くすと、今度は砦の柵から手や体を出して、草木を求めるようになったとか。

 もちろん、鉄砲の餌食である。

 それが撃たれて倒れると、待ってましたとばかりに餓えた連中が刃物をもって駆けつけ、その体をあっという間に捌いて、口にしたとか。

 また、あまりの飢えに柵から手を伸ばして助けを求めるものがいても、鉄砲で撃ち殺す。

 もちろん、彼らはこの死肉までも漁ったそうだ。

 秀吉は、それを然も己の手柄のように嬉々として殿に話しているが、傍らで聞いていて気分が悪くなってしまった。

 乱やその他の小姓たちも顔を顰めていたが、なかには手で口を覆って席を外したりするものもいた。

「敵方も、なんとか活路を開こうと撃って出ましたが………………」

 これを悉く打ち破ったと、秀吉は自慢げにいった。

 城将吉川経家ももはやこれまでと思ったのだろう、己が腹を切ることで、城兵の助命を認めてもらい、開城となった。

 流石に秀吉も、やせ細った兵や百姓たちを哀れに思い、粥を振舞ったそうだ。

 彼らはその粥を一気に貪り食ったらしいが、恐らく極度の空腹に一気にものを入れたのが拙かったのだろう、半数のものが亡くなったそうだ。

「まあ、やつらも最後に粥一杯でも口にすることができ、幸せであったろう」

 と、殿は珍しく死者に手を合わせていた。

 秀吉の話は続き、

「鳥取を落とした後に、伯耆の羽衣石、岩倉を毛利勢が取り囲んだという報せがあったため、急遽駆けつけました」

 伯耆の羽衣石には、織田方の南条元続(なんじょう・もとつぐ)、岩倉には元続の弟小鴨元清(こおがも・もときよ)がいた。

 敵将は、吉川元春 ―― 毛利元就(もうり・もとなり)の次男にして、毛利両川として毛利家を支える吉川家の当主であり、無敗の知将とも聞く ―― 敵に不足なし。

 秀吉も、元春と対峙するように砦を築くが、強いもの同士の勘か、お互いに討って出ることもなく、無駄に兵をなくしてもと、双方兵を引き上げたらしい。

「此度は、斯様次第ではござりましたが、毛利との一戦は来春にと。この次は必ずや毛利勢を打ち破り、壇ノ浦を渡って見せまする」

 相変わらず、秀吉はすぐに調子に乗る。

 だから殿に、

「図に乗るな!」

 と、見透かされる。

 秀吉は、慌てて首を垂れた。

「おぬしの悪い癖じゃぞ、〝猿〟! まあよい、此度の鳥取、伯耆、それに淡路の戦も見事であった」

 伯耆を引き上げたあとにも、池田元助とともに淡路に出陣し、これを平定した。

「まさに武勇の誉れ! あとで褒美を遣わす。あと、坊丸の元服にくれた祝いの品、礼をいうぞ」

 秀吉も、勝長(かつなが)の元服にお祝いの品を送っていたようだ ―― 武田から信房という諱を与えられていたが、織田家として元服し、殿から名を賜り、さらに犬山城を授かった ―― ぬかりない。

 秀吉は、感状と茶道具十二種を涙ながらに受け取り、喜んで立ち上がろうとした。

「待て待て、話はまだじゃ! おぬしはいつもそうじゃ、人の話を最後まで聞け!」

 秀吉は、慌てて畏まる。

「於次(おつぎ:羽柴秀勝(はしば・ひでかつ))はどうじゃ? 上手くやっておるか?」

 於次は殿の四男 ―― 秀吉が嫡男を亡くした後、主家との絆を強めるためと、是非にと養子に迎えていた。

「それはもう!」、秀吉は叫ぶ、「やはり大殿の血を受け継ぎ、見目形もやんごとなき方々のように麗しく、ご活発でありながらもご聡明で、すでに五経などは諳んじていらっしゃるほどで、末は大臣(おとど)か、大将軍かと、寧々(ねね)とともに喜んでおりまする」

「左様か……、あれももう十……」

「数えで十三でございまする」

「いまは、おぬしのもとか?」

「いえ、寧々が大切にお世話をしておりまする」

「もうそろそろ、戦場に出せ!」

「しかし、まだ十三と………………」

「戯け! 儂がその年のころには、すでに初陣しておったわ。織田家の息子として、甘やかすわけにはいかん! 儂は、あれを甘やかすために、そなたらに預けたわけではないぞ! そなたらが、羽柴家の跡取りとして立派な武将に育て上げるので、どうしてもというから預けたのじゃ。斯様に甘やかすのであれば、即刻返せ!」

「そ、その義だけは平にご容赦を。か、畏まりました。そ、それでは次の戦には必ずお連れ致しまする」

 秀吉は、冷や汗を掻きながら下がっていった。

「あいつが二度と裏を返さぬようにと於次を送ったのに、屋敷の中におっては意味がないではないか。まったく……」

 殿は、太若丸に肩を揉めという。

「しかし、最近妙に肩や腰が凝ってな、やはり歳か?」

 まだまだお若いですと返すが、

「儂も来年には数えの四十九、人生五十年まで残すところあと一年じゃぞ、体にもがたがくるわ」

 今度は腰を揉めと、横になる。

「来年が勝負じゃぞ、太若丸」

 如何様な?

「儂が神になる」

 ああ、その話か………………しかし殿は、本当に神になれると思っているのか?………………などとはいえないので、曖昧な返事をした。

「もう少し下を……、どうじゃ、儂は神になれるか?」

 はあ、まあ………………

「ああ、そこじゃ……、儂が神にならんと、息子らも楽はできまい」

 なぜ、殿が神になれば、信忠らが楽をできるのか?

「貧乏公方(足利義昭)が……、ああ、そこそこ……、なぜ鞆の浦におる? 歴代の室町将軍がどのような人生を歩んだ? 鎌倉将軍はどうじゃ? 将軍としての威厳を保ったのは、どのぐらいおる? 片手であまろう」

 まあ、確かに、武家の棟梁として君臨すれども、多くは家臣や他の武将らの動向に目を光らせていなければならなかった ―― 心平穏なときなど、片時もなかったことであろう ―― そこまでしても、鎌倉殿(源家)は得宗家(北条家)に代わられ、室町殿(足利家)も三管四職の力が強くなり、一度も入京できない将軍もおり、貧乏公方は鞆の浦で威勢を張っているぐらいだ。

「将軍もそうだが、公卿らも同じ、皆が鵜の目鷹の目で狙っておる。いつひっくり返されるとも限らん。それに、所詮は帝の補任がなければならぬではないか? 織田家の行く末を考えれば、先行き不安ではないか?」 

 そう言われれば、そうだが………………

「息子らが楽をして天下を治め、その息子らも、そのまた息子らも……、子孫累々、永遠に織田家が天下を差配するために、何人も犯すことができない存在が必要なのだ。それが、この儂……神じゃ!」

 それはつまり………………織田家の天下………………殿は、極楽浄土をつくるために神になるのではないのか?

 織田家の極楽浄土をつくるために、神になるのか?

 それが、まことの極楽なのでしょうか………………と、十兵衛に書状を送った。

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