【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 13(落着)
清次郎の声が途切れてから、次に目を開くまで、惣太郎は丸2日眠っていた。
矢張り風邪をひいていたようだ。そこに、夜通し中仙道を走り抜けたのが祟ったらしい。全快するまでに、さらに3日かかってしまった。
ゆえに、以下のことは、清次郎から聞いた話である。
あのあと、さらに探索を行ったが、おはまと犯人たちは見つからなかった。
寺社奉行所は、御手洗が指揮を執り、政吉の周辺を見張らせた。必ず、おはまが連れてこられる。そのとき、一網打尽にしてやろうという魂胆であった。
寺社方が政吉の周りを張りこんでいると、町方も動き出した。
板橋で、寺社方と町方がにらみ合ったまま、2日が過ぎた。
3日目、それは起こった。
政吉が、いずれともなく姿を消したのである。
その一報を聞いたとき、父は苦虫を噛み潰したような顔のまま、しばらく立ち尽くしていたという。
「もしかすると、おはまを攫った子分と、上方で落ち合っているという可能性もあります。が、当事者ふたりが姿を消しては、どうにもなりません。お父上は、相当ご無念でしょうが」
清次郎だって随分悔しいはずだ。だが、彼は一切表情を変えることなく淡々と語っていた。
おはまの〝寺抱え〟は破棄され、北町に出されていた政吉の訴えも、当然却下された。
この一件で、寺役人筆頭の立木宋左衛門は、寺の守りに問題があったと厳重注意を受けた。
一方の北町では、政吉に十手を渡していた同心に、不届き者に十手を授けていたと謹慎が言い渡された。
惣太郎は、縁側にぽつんと座って、流れる雲を見るともなしに見ていた。
手には、おさえ坊の綾取りがある。
全く絡まったままである。
虚しい。
本当に虚しい仕事だ。
ひとりの女のために、たくさんの人が働いたのに、こんな終わり方があるだろうか。幸せを願って、ひとりの男が老体に鞭打ち働きまわったのに、それが全て無になってしまった。
その男はいま、風邪で寝込んでいる。
息子の風邪がうつったのだろう。
「それは、おさえちゃんの綾取りですか」
ぼーっとする惣太郎に声をかけたのは、母であった。
「ああ、母上。父上のお加減はどうですか」
「いえ、もう元気なんですよ。ちょっと、ふくれているだけなんです」
「はあ、そうなんですか」
「機嫌が悪いと、むかしからああですから」
「まあ、父上の気持ちも分からないではないです。自分が心血を注いだ一件が、こんな終わり方をするなんて、虚しい想いです」
「それがね……」、波江は惣太郎の手から綾取りをとりあげ、絡みを解いていく、「このお仕事の辛いところなんです。でも、きっと悪いことだけはないんですよ。いいことも、あるんです」
「いいことですか。おはまが連れ去られて、どこかでまた政吉に酷い目にあっていることがですか」
「私ね、女の死体があがったって聞いたとき、もう駄目だと思ったんです。でも、それが間違いと分かって、ほっと安心しました。ええ、そうですとも、生きてるんです。おはまさんは、まだ生きてるんですよ。この空のもとで、たとえ辛くても、必死で生きているんです」
「それで、おはまは幸せなんでしょうか」
「生きていることが、小さな幸せだと思いませんか、惣太郎は。はい、これでよし」
母の手には、解けた綾取りがあった。
「あっ……、それ、どうやって……」
「殆どは、あなたが解いていたのですよ。私は、最後を少し手伝っただけ。無理に外そうとすれば、余計に絡まります。引っ張ったりしたら、ぷつんと切れます。拗れた縁は、ゆっくりゆっくり時をかけて、解いていくしかないんです。それを覚えていれば、あなたはこのお役を立派にこなせますよ」
はて、どこかで聞いた文句だな。
母は、太い眉の上に手をあてがい、まるで遠くの誰かに視線を送るように、冬間近の薄寒い空を見上げた。
「いつかは春がくるんですもの。それまで、辛抱、辛抱」
(一件落着)