【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 44
―― 天智天皇の治世3(670)年4月30日
丑三つ時を過ぎたころから雲が空を多い、西の端では雷が龍のごとく走っている。
久米部大津を先頭に、大伴軍が斑鳩寺に向かって進む。
その中に、怒りに震える黒麻呂もいる。
大伴朴本大国の乗る馬が過ぎると、馬上の御行と安麻呂の姿も見えてきた。
安麻呂は、いまにも逃げ出したそうな顔である。
そのあとを、兵士たちが粛々と進んでいく………………
同じころ、その後方を送れてついてくる馬があった。
馬は、女を乗せて駆けている。
八重女である。
どうにかして弟成に知らせようと、屋敷を飛び出してきたのだ。
―― 急がないと、弟成が……、弟成が……
八重女は馬の首にしがみつき、斑鳩に急いだ………………
斑鳩に着いた大伴軍は、寺に悟られるように包囲網を敷いた。
先鋒は大国の部隊。
敷地内に侵入し、金堂、塔、講堂、中門、回廊の主要個所に火付け用の薪・柴を配置、油を撒き、合図とともに火を放つ手はずである。
予想外に警護の数が多いが、戦慣れした大国の部隊である。
警護の人間をいとも簡単に倒し、大門をこじ開けると、寺内へと忍び込んだ………………
八重女は、ようやく斑鳩へとたどり着いた。
馬は息があがり、到着ともに倒れ込んでしまった。
その勢いで前に投げ出され、顔から思い切り地面に打ち付けてしまった。
激痛が走る。
血が出ているかもしれない。
だが、構っている暇はない。
馬を見ると、ひいひいと息をあげている。
「ごめんね」
と、馬の頭を撫でた後、斑鳩寺に向かって走る。
小高い丘に登り、斑鳩寺を見下ろすと、大伴軍が包囲しているのが分かる。
蟻の這い出る隙もないようだが………………確か、斑鳩寺にぬける獣道があったはずだ、むかし逃げてきたときに使ったことがある。
八重女は、そちらに向かって走り出した………………
斑鳩寺は、中門から入ると、塔、金堂、講堂と縦に並んだ四天王寺式だ。
目の前に、大きな塔が聳え立っている。
遠くで雷が響く。
―― あの中に、弟成がいる!
黒麻呂は、じっと塔を睨みつける。
「黒麻呂、塔はあとだ。まずは金堂や講堂だ」
大津の言葉に、我に返る。
中門から、薪や柴を担いだ兵士たちが続々と入ってくる。
黒麻呂は、あっちだ、こっちだと指示を出す………………
思った通りだった。
獣道を抜けると斑鳩寺の脇に出た。
さらに、外回廊の一部に、子どもであれば通れるほどの穴が開いている。
何とかそこを通り抜け、中回廊まで出てきた。
本当にこれから襲撃があるのだろうか?
それほど辺りは静まり返っている。
大伴軍は、もう中まで侵入しただろうか?
寺の人を起こそうか?
いや、ここから僧房や奴婢長屋まではかなりある。
呼びに行っている間に、火を付けられるかもしれない。
では、自分が塔にいる弟成に知らせないといけないのだが、中門から入れば、大伴軍に見つかってしまうだろう。
それならばと、八重女は回路の傍に立つ大きな松の木を見上げた。
太い枝が、回廊の中まで伸びている。
―― これを伝わっていけば………………
八重女は、木登りに邪魔になる裳を脱ぎ、肌着だけなり、その肌着も裾を破りとり、太ももを丸出しにして、松の木に飛びついた………………
金堂も、講堂も、中門も配置よし。
残りは、塔だけである。
黒麻呂は見上げる。
子どもの頃から、ずっと見てきた、斑鳩寺を象徴する塔である。
それにいま、火を付ける。
―― そして、新しい人生をはじめる。
黒麻呂は、塔に近づく。
確かに、格子戸から光が零れている。
誰かがいるのだろう ―― 弟成に違いない。
―― 弟成、覚悟しろ!
黒麻呂は、勢いよく扉を開けた………………
どさっと鈍い音が境内に響き渡る。
「うっ……」
と、鶏を絞めたような声がする。
実際八重女は松の木をよじ登り、枝を伝わって中に入ったまでは良かったが、枝から降りるには高すぎて、それでも急いていたので、しょうがなく覚悟して飛び降りたら胸から落ちて、息も出来なかった。
しばし、胸を押さえて蹲っていたが、塔の辺りで人の気配がしたので、まだ息ができなかったが、何とか立ち上がって、砂利の上を裸足で駆けていった………………
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?