【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 4
寺預りの女は、役場の後ろに建てられた庫裡で生活をしている。
開け放たれた戸口を覗くとそこは土間で、ふたりの女が煮炊きをしていた。
ひとりは、おみねだ。彼女は山菜を刻んでいる。
とすると、飯釜の前で、風を送っているのがおはまであろう。思っていたよりも若々しい女だ。父の話では、今年32だという。22のおみねのほうが随分老けて見えた。
おはまは、ぽてっとした唇を火吹竹にくっつけ、すべすべの頬をぷうっと膨らませて、息を吹き込む。火が、ぼっと勢いを増すと、額に汗の玉がぷつぷつと滲み出し、ほっそりとした目元をさらに細めて、手の甲で拭う。
妙に色っぽい仕草に、惣太郎はぼーっとなってしまった。
『覗き見なんて、行儀が悪いですよ、惣太郎』、母は眉を顰めて言った、『おはまさんに直接会って、話を聞けばよろしいではないですか』
『いや、特に尋ねることもないんです。ただ、どのような女か確かめておきたかっただけですから』
『外見を見ただけでは、その人の本当の心というものは分かりませんよ』
『そういうものですか』
『そういうものです。では、そなた、おはまさんを見てどう思いましたか』
『はあ、思っていたよりは元気そうですね。もう少し、沈んでいるのかと思いましたから』
『だから男の人は駄目なんです。外見だけに囚われて、肝心なことが見えていない。おはまさんが元気そうに見えるのは、いままでの苦労から一時的に解き放たれたからなんですよ。あの方は、小さい頃から、それはそれは苦労なされてきたんです』
惣太郎は、きょとんとした顔で母を見た。
『その様子だと、父上から聞いていませんね、おはまさんの過去のことを』
聞いてないと正直に述べた。
『これだから殿方は』と、母はため息を吐く。
母の話はこうだ。
おはまは、瓦職人の父と、百姓の母の間に生まれたらしい。
母は、おはまを生んですぐに亡くなって、その後、父親が後妻をもらったのだが、それが酷い女だったようだ。はじめのうちは、おはまを自分の本当の娘のように可愛がっていたが、いざ、弟たちが生まれると、その子たちばかりを可愛がり、おはまには酷く当たったようだ。
『まるで奉公人のような扱いだったと、おはまさんは笑ってましたけど、すごく悲しそうでしたよ』
飯炊き、洗濯、掃除に子守と、休む間もなく働かされ、そのくせ飯は弟たちの残り物、夜具もまともにあてがわれず、膝を抱き、生みの母の夢を見ながら眠ったらしい。
それでも、父の稼ぎで何とか食べていけたのだが、ある日、父が寄進中のお寺の屋根から滑り落ち、片端(かたわ)になってしまった。
すると、後妻と弟たちは、どこかにぷいっと居なくなってしまった。
残されたのは、寝たきりの父と、まだ十歳(とう)にもならないおはま。
仕方なく奉公に出るが、そこでも奥様から叱られ、先輩方からいびられる毎日。
寝たりきりの父は、だんだんと食も細り、身体もやせ細っていく。
町医者に見せれば、滋養のつく物を食べさせ、薬を飲んでいれば大丈夫だというが、それを買う銭さえない。
となると、筋の悪いところから金を借りざるを得ない。
その金で薬を買い、身体に良い食べ物を買って父に食べさせるが、一向に良くならない。
さらに金を借りて、薬を買い、食べ物を買い、そしてさらに金を借りて………………自分でも覚えていられないほどの金額になってしまった。
身も心も疲れ果てたおはまは、ふと思ってしまったそうである。こんな男、死ねばいいのに、と。そして、気づけば父の首筋に両手をあてがっていたという。
『あたしは、慌てて手を放し、泣きました。そして、おとっつぁんに謝りました、ごめんね、おとっつぁん、本当にごめんね、親不孝な娘でって』
『でも、そんなに追い詰められたら、誰だってそう思ってしまうわよ。あなたが悪いんじゃないわ』
『でも、でも、一瞬でもおとっつぁんが死ねば良いって思ったのは本当ですし、そんな自分が情けなくて……』
ぼろぼろと涙を流しながら話すおはまを見て、もらい泣きしてしまったと、母は袖で目頭を押さえながら言った。
『それで、父親のほうは』
『それから暫くして亡くなったそうよ。親不孝な話だけど、おはまさんもこれで少しは楽になれると思ったんじゃないかしら。でも、ほら、お金を借りていたのが……』
それは、とても普通に働いて返せるような額ではなかった。
そうなると、女が行き着くところはひとつ。
紹介された仕事が、板橋宿で泊まった客の膳をあげたり、下げたりする仕事だと言われたが、ようは客と寝ろということだ。
奉公人のような仕事に加え、男にいいように身体をいじられ、自分はいったい何のために生まれてきたんだろうかと、おはまはつくづく情けなくなったと語ったという。
そんなおはまにも、ようやく春がやってきた。ある男が、おはまの借金を全部肩代わりしてやるという、しかも一緒にならないかとまで言ってきた。
不幸続きの自分でも、ようやく幸せが掴めるのだと、おはまは有頂天になった。ほんの些細な幸せでもいい。好きな男と静かな生活ができれば。
おはまは、己の小さな幸せを願って、その男と縁を持った。
それが、政吉である。
半年近くは、じつに幸せな毎日を送っていた。自分がこんなに幸せになっていいのかと驚くほど、そして早くに亡くなった母や、失意のうちに死んだ父に申し訳ないような気がした。
それでもおはまは、政吉との取り立てて裕福とはいえないが、だが十分すぎるほどの幸せを謳歌していた。
しかし、半年を過ぎたころから、風向きが変わりだした。
政吉の本性が徐々に出始めたのだ。
酒を飲んではおはまに手を出したり、家にやくざ者を連れてきて丁半をしたり、他所に女を作ったりと、あとは宋左衛門から聞いたとおりである。
『おはまさん、言ってましたよ。あたしは、いつになったら苦労しなくて済むようになるんでしょう、もしかして、一生苦労しなきゃいけないんですかねって。あたしは言いましたよ。おはまさん、そんなことは絶対にない、どんな人にも、必ず春がやってくるのだから。だから、辛抱強く待ちましょう。きっと、私の夫が何とかしますからって』
『そうですか、おはまにそのような生い立ちが』
『そうですよ、知らなかったんですか』
全くと惣太郎は首を振った。
母は、呆れたような顔をする。
『これだから男の人は。いいですか、人には色々な過去があるものです。その過去すべてが、いまへと通じるのです。単に目の前で起こっていることだけを見ていては、真実(まこと)のことは見えてきませんよ。その人の生い立ちから何から全てをひっくるめて、その人にとって、本当に離縁するのがいいのか、それとも熟縁するのがいいのかを考えないと、その人は絶対に幸せになりません。惣太郎が、ここの役人としてやっていくのなら、そういうことも配慮して考えてくださいね』
『最もです』と、惣太郎は頭を下げた。
『ところで、惣太郎』、母は突拍子もないことを尋ねてきた、『茶屋って、そんなに儲かるものなんですかね』
『さて、どうでしょう。しかし、なぜに行き成りそのようなことを』
『いえね、ここに駆け込んでも、すぐ離縁となるわけではありませんよね。話が拗れれば拗れるほど、色々と入用になります。女に身内でもいればいいのですが、そうでなければ、女の身でそれほどのお金を用意するなんて無理でしょう』
『まあ、確かにそうですね』
『おはまさんは、政吉に任さられていたお茶屋の金を少しずつ誤魔化して、必死で溜めたって言ってるんですが、そんなに茶屋って儲かるものなのかと思いまして』
『まあ、それはあれでしょう、売るのはお茶だけじゃなくて、身体も……』と言って、惣太郎は慌てて口ごもった。
母は、『嫌らしい』と睨みつける、『全く、どこでそんな言葉を覚えてきたのですか、はしたないですよ、惣太郎』と怒られた。
母にとっては、まだまだ子どもである。
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