閑窓随筆 ~『縁切寺御始末書』が終わって……
いつの世も、男女の問題はあるもので、縁切り寺はその問題の中でも一番厄介な離婚を扱いました。
縁切り寺というと、鎌倉の東慶寺が有名ですが、群馬県の満徳寺も、幕府公認の駆け込み寺でした。
とはいうものの、この2つのお寺でしか夫婦の縁を切ることができないわけではありません。
元来、お寺は僧侶の修行の場でありながら、いつの頃からか俗世の人間の避難場所にもなっていました。
問題を起こした侍や戦に負けた武将たちが、寺に入って、僧侶に敵との仲立ちを頼むといった具合にです。
相手も、流石に寺にまでは侵入して敵を討ち取るわけにもいかず、そうなれば、その寺の宗門全てを敵に回しかねないので、大人しく兵を引くか、寺の仲立ちを受け入れるか、それでも承服しがたければ、寺を脅すか(実際には攻め込まなくても)、なかなか寺だけは手を出さなかったようです。
が、武将の中には、寺が仲介に入るのを嫌がる者もいたようで、寺を攻めたりしてますが……
そのためか、庶民も、悩み事を聞いてもらうために寺に行ったり、揉め事の解決のために頼ったり、暴力や脅しから逃れるために駆け込んだりとしていたようです。
いまでも、公や民間が設置しているシェルターなどがありますが、むかしはその役割をお寺がしていたのですね…………………
さて、江戸時代の離婚についてですが、いまは夫婦がよく話し合って、両者納得の上で緑の紙を書きますが(まあ、納得しないで書かされることもあるのでしょうが)、納得できないときは離婚調停となって民事裁判所が介入しますが、いわば縁切り寺は昔の民事裁判所といったところです。
むかしは、三行半(離婚届)は男が書くものと決まっていました。
男のほうに、女房を決める権利があった ―― という、いまなら炎上間違いなしの話ですが、ともかく男性に優位であったということです。
が、それでは流石に女性が可哀そう ―― 大体縁を切る原因が、必ずしも女性にあるわけではなく、男だって問題があるだろう ―― というか、その方が多いのでは? などという考えがあったのかは分かりませんが、そんな女性たちの最後の砦として、鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺がありました。
幕府公認ですから、その権力は偉大です。
夫がごねようなら、最後は寺社奉行の力で………………というわけです。
まあ、大体は女房が縁切り寺に駆け込んだ時点で、夫のほうは復縁の望みなしとなって、諦めて三行半を書いたようです。
ですので、『縁切寺御始末書』の中ででてきた男たちのように、ごねるような者は中々いなかったようですが。
この話は、縁切り寺の役人という、少し珍しいお役に付いていた侍たちをメインにした物語です。
江戸時代の話を書きたいと思ったとき、腕自慢の用心棒が主人公だったり、同心・岡っ引きの捕物帳だったりと考えたのですが、派手な殺陣はなくても、当時の人たちの悩みや悲しみ、憎しみ、そして喜びが味わえる、一味違った話にしたいと思って、彼らを主役にしました。
いまも昔も変わらぬ夫婦の仲ですが、その間で立ち回る彼らには大変な苦労があったでしょう。
その苦労が少しでも報われるような作品であったらと思うのですが………………
さて、次回は、というかもうすでに掲載してますが、延びに延びた『法隆寺燃ゆ』の第三章「皇女たちの憂鬱」です。
新しい時代が幕を開けましたが、その中で女たちがどう生きていったか ―― 今度は女性たちの物語です。