【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 10
江戸見物で思い出した。
「そうそう、話は変わりますが、中村さま」
惣太郎は、板橋で寅吉に会ったことを告げた。
「ほう、寅吉がおみねを想っているというは満更嘘ではないわけですな」
と、驚いたような口ぶりだが、顔は全くといっていいほど平然としている。
「して、その男ですが……」
「寅吉ですか」
「いえ、長屋で会ったとかいう、まるで幽霊のような男です。いったいに何者なのでしょう」
「はあ、私も気になってはおったのですが」
「おみねのことを酷く気にしている素振りを見せて、なおかつ、はじめは自分が寅吉だと述べたのでしょう」
「いえ、寅吉かと尋ねたところ、そうだ……といったあと、すぐに取り消したんです」
「うむ」と、清次郎は僅かに尖った顎に手をやり、考え込む。
惣太郎も、首を右に左にと傾げて考える。
父はといえば、本当に江戸見物にきたように、物珍しそうに宿場町を歩く。
「ふむふむ、3年前にきたときは、あの店はなかったぞ。おや、ここの店は名を変えたか。うむうむ、時の流れるのは早いものだ」
と、感慨に耽っている。
「あっ!」と、突如清次郎が声をあげた。何か思い当たったのだろうか。
「立木さま、このまま行くと、まずいですよ。回り道しましょう」
清次郎は、わき道を指差す。
「おお、そうであったな」と、宋左衛門は街道をはずれ、わき道に入っていく。清次郎も続く。何事かと、惣太郎は付いていく。
「あの、なぜ街道を通らないのです。あちらのほうが近道ですよ」
「惣太郎殿は、あの街道を通ってこられたのですか」
清次郎が心配そうに訊いてくる。
ええと、少々頬を引き攣らせて答える。
「江戸に来たときも」
「ええ、通りましたよ」
しばらく考え込んだあと、
「まあ、惣太郎殿はまだ独り身ですから大丈夫でしょう」
と、清次郎は言った。
何のことを言っているのだろう。
「いやいや、これで縁遠くなってしまったやもしれんぞ」
と、父は笑う。
何が可笑しいのだろう。
惣太郎はさっぱりだ。
「惣太郎殿、街道沿いに大きな木があったのに気がつきませんでしたか」
「ええ、ありましたね」
街道を覆うほど枝を張った榎と、それに寄り添うように槻の木が立っていた。
「それがどうかしましたか」
宋左衛門は笑いながら言った、「あれは、縁切りの榎だ。榎と槻をあわせて、〝縁のつき〟などといってな、いつの頃からか知らんが、嫁入り行列があの下を通ると不縁になると言って、避けて通るのだ」
「まさか、そんな迷信を」
「いえいえ、将軍家に降嫁なされた宮さま方は、この街道を通られるときは、みな迂回されたそうですよ」
と、清次郎は真面目に答える。
「逆に悪縁を切ってくれるとも言ってな、駄目亭主と別れられますようにと拝んでいく娘が、いまも絶えないそうだぞ。あと、榎の皮を煎じて、それを酒に入れて男に飲ませれば、別れることもできるし、男は酒を飲まなくなるとも言われておるらしいぞ」
「そんなこと、どこでお知りなったんですか」
「駆け込んでくる女たちからだよ。縁切り榎にお願いしたが駄目だったので、いよいよこの寺に駆け込んできましたと言う。まあ、そういう神頼みが好きだわな、女は」
「そんなものは迷い事だとは思いますが、一応は拙者にも女房がおりますし、こういうお役目ですし、まさか縁切寺の役人が女房に逃げられたなんて恥ずかしいですから、避けて通っているのですよ」
普段は真面目で理屈ぽいところがある清次郎だが、意外と迷信を信じているとは、面白いものだ。
「しかし、おはまのために、ひとつ神頼みしてくるのも良いかもしれんの」
「それでは、戻りましょうか」
少しの沈黙の後、宋左衛門は首を縦に振った。
親父も、意外に迷信家である。
お陰で、惣太郎は夢に見た。
山のようにこんもりと覆い茂り、枝は街道どころか、板橋宿、いや、満徳寺まで覆い隠すほど伸びていた。幹は何十人という大人が輪になっても届かないほど大きく、樹皮は岩のようにごつごつしていた。
その木に、女たちがわんさかと集まっている。
木に手を合わせて願うものや、座り込んで経を唱えるものがいる。何人かが、木の幹に小刀を突きたて、皮を剥ぎ取っていく。剥かれた皮の下からは、薄桃色の身が現れ、やがてじわりと血が滲み出し、垂れ落ちていく。それがしばらくして固まり、黒ずんで、また皮となるのだ。
皮を剥ぐ女の中に、知った顔があった。
おけいである。酒飲みの亭主に飲ませようというのだろう。
おはまの顔もある。彼女は、木の前で手を合わせ、政吉と別れさせてくださいと必死でお願いしている。
おみねもいる。両手の爪を木の幹に突きたて、まるで身ごと剥き取るような感じで、皮を剥いでいく。鬼のような形相である。爪の先には血が滲んでいる。それほど、夫が憎いのか。
周りの女たちも、目を血走らせ、息も荒々しく、まるで奪い合うように皮を剥ぎ取っていく。
女の執念とは、恐ろしいものだ。
再びおみねに目をやると、すでに彼女はいなかった。代わりに、母がいた。母は、おみね同様、歯を剥きだしにし、にたにたと不気味な笑みを零しながら、皮をとっている。
母も、父と別れたいのだろうか。
母は皮を引っ剥がすと、それを大事そうに抱きかけながら、惣太郎の傍を通って満徳寺のほうへと帰っていった。
明らかに目があったのだが、母は惣太郎と気がつかなかったのか、声をかけることも、笑いかけることも、ましてや、皮を剥いでいるところを息子に見られたと恥じ入る様子もなかった。
夢の中の惣太郎は、酷く寂しい思いだった。
目が覚めると、頭が馬鹿に重かった。
風邪をひいたか。
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