【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その三 おりつの一件始末 13
翌日、甚左衛門親子と、勝五郎一同がやってきた。
甚左衛門は、まだ顔の腫れがひかず、むしろ、目や頬など、至るところが紫色に変色して、酷い状態だった。
「本日は、昨夜、我々で話し合いました仔細を、お知らせに参りました」
隣村名主の伊之助が代表で話した。
あれから宿に戻り、寝床でうんうん唸る甚左衛門を尻目に、伊之助が中に入って勝五郎とおくまで話し合いがもたれた。
おくまは、息子が殴られたのが相当効いたのか、金はいらない、いますぐ別れて欲しいと勝五郎に頼んだそうである。
勝五郎も、それならばと同意し、あとは甚左衛門の意思だけとなったのだが、彼はやおら起き上がると、ぱんぱんに膨れ上がった唇を動かし辛そうにしながら言った。
『オラ、おりつとは別れね』
これには、一同驚いた。
あれほどの目にあったのだ。もう懲りているだろうと思ったのだが、どこか変なところでも打ったのではないだろうか。
『そんなこと言ってもね、おりつは別れたいと言ってるんだし、あんな目にあってるんだし、もう別れたほうがいいよ。女は他にもいるじゃないかい』
母親がそう諭すのだが、甚左衛門は首を縦に振らなかった。
『オラは、おりつとは別れね』
と、馬鹿のひとつ覚えみたいに、そればかり繰り返した。
『甚左衛門さん、あんたが幾らおりつさんのことを想おうと、おりつさんは家には帰りたくないといってるんだよ』
『おりつが家を出て行く言うんなら、オラも出て行く』
『ちょ、ちょっと待っておくれよ、あんた』
母は驚き、泣き縋る。
『そうだよ、幾らなんでも、それは無茶な話だ。もう少し冷静になろう』
と、伊之助や伝兵衛も宥める。
だが、甚左衛門の意思は硬かった。
『オラ、おりつと一緒に家を出る』
『なんで、そんなことを』
『オラ、お役人さまに殴られて、初めておりつの痛みが分かった。オラ、馬鹿だった。おりつのことを想っていると言いながら、全然おりつの心が分かっていなかった。いままでは、おりつを守れなかった。だから今度は、どんなことがあても、おりつを守ってやりたいんだ』
いつになく真剣に話す息子の姿に、さすがのおくまも感じ入ったものがあって、反論らしい反論はできなかった。
『で、でも、お前さん、うちの家はどうするんだい。お前が出て行ったら、誰が跡を継ぐんだい』
『養子をとればいい』
その後、色々と話し合った結果が、
「もう一度、おりつさんに戻ってくる気はないかと説得できませんでしょうか」
と、伊之助は恐る恐る訊いてきた。
「なに? おりつを説得しろというのか」
呆れた提案に、さすがに声が上がってしまった。
「おりつの意思は固いのですよ。今更、何を言っても無駄でしょう」
「そこを、どうにかなりませんでしょうか。もちろん、ただとは申しません。おくまさんには、もう二度と嫁に子どもを生めとか、石女(うまずめ)とか言わないよう、証文をとりますし、甚左衛門も、何かあれば、おりつの側につくと約束させます。あと、子どもは養子を迎えることにしますので、もうそれで悩むこともありません。実家のお金のことも、帳消しにします。これでどうでしょう」
随分な譲歩である。
よほど、甚左衛門が家を出ると言ったことが効いたようだ。
惣太郎は、父を見た。
父は目を瞑っている。どうやら、自分で考えろということらしい。いや、本当に寝てるのかも。
兎も角、どうすべきか。離縁か、それとも熟縁か。いったいどちらが、おりつにとって幸せなのか。
考えれば考えるほど、混乱してくる。
―― ええい、ここはもう、おりつ自身に任せよう!
惣太郎は、甚左衛門の覚悟を、おりつに伝えた。
すると彼女は、思ったよりも落ち着いた態度で、
「いまごろ言われたってねぇ。もう少し早くに言えって、あの馬鹿亭主」
と、呟いた。
これは駄目だなと思った。
だが、
「いいですよ、あたし、戻ります」
と、答えた。
「戻って大丈夫ですか。証文なんて役に立つか分かりませんよ。時が立てば、おくまの悪い癖が出て、甚左衛門ももとに戻ってしまうかもしれませんよ」
おけいの、酒癖の悪い亭主の例もある。
「そうかもしれませんね。でも、大丈夫です、今度は。養子に来た子を、あたしの言うことを絶対にきくように育てていくんですよ。そして、あの家を乗っ取ってやるんです」
そう言っておりつは、なんとも言えない凄みのある、美しい笑みを零した。
女は怖いと、背中がぞくっとした。
何はともあれ、おりつの一件は落着である。