【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 42
飛鳥に戻ってきたのは何年振りだろうか?
やはり近江とは風が違う。
黒万呂は深呼吸をし、しばし故郷の匂いを楽しんだ。
「おい、黒万呂、早く来い!」
大伴朴本大国連(おおとものえのもとのおおくにのむらじ)の従者である久米部大津(くめべのおおつ)に呼ばれ、はっと我に返って駆けだした。
「早く来い! 御行様がお呼びなんだぞ!」
早足になる大津の跡に、急いで着いていく。
帰ってくれば、すぐにでも八重女に会えると思ったのだが、どうしたものか、その前に大伴のお偉いさんに会えという。
数日前、飛鳥から大国の部隊は急いで帰還せよとの命が下った。
あわせて、帰還したならば、黒万呂という兵士は、御行のもとへ参上せよと言われた。
『なぜ、俺が?』
と、黒万呂は不思議がった。
『さあ……』
と、大津も首を傾げた。
『兎も角、飛鳥に戻ればわかろう』
というわけで、急いで戻り、御行のもとへ参上したのである。
大広間に入ると、目の前には大伴御行という黒万呂を呼び出した,、厳つい男が座っていた。
左右には、これまた怖い顔をした男たちがずらりと座っている。
一番末席ではあるが、黒万呂の現主人たる大国もいた。
「それが、黒万呂か?」
御行が尋ねると、大国が「御意に」と答えた。
「黒万呂とやら、そなたは、もとは斑鳩寺の奴婢と聞くが、相違ないか?」
「は、はあ……」
委縮して小さな声で答えると、後ろに座っていた大津から、
「馬鹿者、はっきりとお答えしろ!」
と、怒られた。
「そうです」
「うむ、ではそなた、斑鳩寺のことに詳しいか?」
「詳しいわけやないけど、何度か寺に入ったことがありますから」
「なに? 奴なのに、寺に入ったか?」
「いや、寺の坊さんが入れというから……」
「なるほど、では寺の配置など知っておるのだな?」
「全部やないけど、ある程度は……」
黒万呂は、訊かれるままに、正直にすべて答えた。
御行は、左右の男たちと目配せし、頷いた。
「よし、ならばそなた、先鋒となって案内せよ」
黒麻呂は、何を言われたか意味が分からず、大国を見た。
「今度の標的は、斑鳩寺だ」
「標的……、まさか、お寺に火を付けるのですか?」
大国は、当然だと言わんばかりに頷いた。
「そ、そないな……、なんでそないなこと……」
近江での火付け行為でも嫌なのに、なぜ所縁のある寺に火を付けなければならないのか?
大体あそこには、黒麻呂の家族 ―― 弟たちの家族もいるし、むかしの仲間もいる。
それに、これ以上火付けをやるのは嫌だ。
八重女にも会わせる顔がない。
「お、俺は、そないなこと……」
「黒麻呂、嫌とは言わせんぞ」、大国が睨みつけてくる、「大蔵まで火を付けたのだ、そなたも共犯、もはや逃れることはできんのだぞ」
「そ、そやけど、俺は……」
「黒麻呂、これは我が国開闢以来の政を守る為なのだ」
そんな国のことなんか、自分には関係ない。
八重女と幸せになれればそれでいいのだ。
これ以上、罪を重ねたくはない。
それを察したのか、御行が口を開く。
「黒麻呂、そなた、わが妹の八重子と同じ斑鳩の奴婢らしいな。八重子と懇意にしておるとか?」
八重子の名が出てきたので、黒麻呂はぎくりとし、完全に固まってしまった。
「そなたと八重子の事情、わしらが知らぬと思ってか?」
完全にばれている ―― 八重女とのことが………………
「もと婢といえども、八重子はいまや大伴氏の娘。そなたは、大伴のいち兵士。その兵士が、貴人の娘に手を出したとなれば、どうなるか知らんではあるまい?」
もちろん、命はないだろう。
「さあ、どうする?」
冷たい汗が、背中を伝っていく。
みんなが、黒麻呂の返答を待っている。
大国に至っては剣を引き寄せ、黒麻呂の返答によってはその場で首を撥ねるつもりだろう。
命は惜しい。
だが、寺の仲間たちに危害が加えられることは避けたい。
「返答出来ぬか、ならば……」
大国が剣を持って立ち上がろうとすると、御行が止めた。
「まあ、待て。黒麻呂」、呼ばれて体を震わせた、「もしだ、もしお前がやるというのなら、八重子とのことは考えてもよかろう」
「えっ……、それは……?」
黒麻呂は、はっと顔を上げて御行を見た。
「斑鳩寺襲撃のあと、おぬしは八重子を連れて、どこにでも行くがよい」
「ほ、ほんまですか? 本当にええんですか?」
御行は頷く。
八重女と一緒になれる。
好きな女と一緒になれる。
お天道様のもと、手を握り、堂々と生きていける。
―― 俺の望んだ人生だ。
奴婢であれば、こんな人生は歩めなかっただろう。
大伴の兵士となったから、こんな機会が巡ってきたのだ。
嫌な仕事でも、きっちりとこなしてきたら、お天道様が見ていてくれたのだ。
黒麻呂は、はっきりと答えた。
「やります! やらせてください!」
彼の頭には、八重女との新しい生活のことばかりで、もはや斑鳩でともに生活した家族や仲間たちのことはなかった。
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