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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 28

 その矢先の出来事だった。

 10月に入って、幾分肌寒くなった夜だ。

 菟道(うじ)(京都府宇治市)で、唐からやってきたお偉いさんを招いて閲兵式をやるとかで、月初めから大伴の主力部隊も派遣され、残された部隊にしわ寄せがきて、宿直(とのい)が3日に一度だったのが、休みなく続いて、他の兵から不満が出ていたところである。

 黒万呂は確かに疲れはあったが、願ってもない好機だと思った。

 毎夜屋敷を見回り、今夜も駄目かと肩を落としていたのだが、その夜は様子が違った。

 満月の夜である ―― 寒さで青白くなった月が闇夜に怖いほど冴えわたり、池の水面にもその影が落ちていた。

 蛍に見惚れて落ちそうになった池である。

 今宵は月に見惚れて落ちないように気をつけねばと通りがかると、不意に屋敷から声がした。

「ずっとなかに籠っていては体を壊す。たまにはこうやって戸を開け、夜の澄んだ空気を入れるのがいいよ。良いころ合いに、今夜は満月だ、ほら」

 見ると、外に面した廊下に立ち、月を見上げる男がいた。

 恐らく大伴家の誰かと思われたが、黒万呂にはそれが誰か分かりかねた。

「随分良い月だね。どれ、一句詠みたい気分だね、さてさて……」

 と、男は顎に手を添え、首を捻る。

「兄様は、本当に歌がお好きなのですね」

 屋敷の中から声が聞こえる。

 黒万呂は、その声にはたと立ち止まり、急いで近くの木陰に身を顰め、耳を澄ませた。

 この声は………………

「歌は私の生きがいだからね。歌を詠っていると、気分が良くなる。八重子もどうだい、一句」

 八重子………………!

 間違いない、いま男の口から八重子と聞いた ―― 大伴家の娘になった八重女の別名だ。

 黒万呂は、木陰からそっと顔を覗かせ、屋敷を見た。

 珍しく戸が開け放たれている。

 そこから女の白い顔が覗いている。

 声が出そうになったのを必死で押さえた。

「私は、不調法ものですから」

「そんなことはない、この前も額田様が褒めておられたぞ」

「お恥ずかしいことです」

「いやいや、八重子は覚えが早い、私も見習わねばな」

 などと、男と八重子の他愛無い会話が続いた。

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