【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 10
次の日、宝大王から間人皇女へ、飛鳥に戻るようにとの命令が伝えられた。
彼女はまた泣いた。
初めて愛を知った彼女にとって、辛い仕打ちであった。
―― どうして、誰も私たちのことを放って置いてくれないの?
しかし間人皇女も、有間皇子も、我侭が通るような立場ではなかった。
「泣かないで下さい」
声は、有間皇子であった。
彼は、優しく間人皇女を抱き締める。
「私たち、このまま引き裂かれてしまうのかしら………………」
彼女の声は震えていた。
「誰も、私たちの仲を裂くことはでききません」
「でも………………、有間、逃げましょう。二人で、王族の身分を捨て、何処か静かな場所で一緒に暮らしましょう」
「間人………………」
時に、女は夢を見るものである。
そして、男は現実に押し流されるものである。
「駄目です、間人。私は、あなたを妻として、堂々と暮らしたいのです」
「そんなこと………………」
それは不可能である ―― 一つの方法を除いては。
「大丈夫です。大后だったあなたを妻にする方法があります。それは………………」
「それは?」
「私が、大王となることです」
大王の力を持てすれば可能ではあろうが、歴史上、前大后を大后とした大王はいない。
「私が大王になれば、あなたを大后にすることができます」
「そんなことが可能でしょうか? いままで、前大后を大后とした大王はいないのですよ」
「私が、大王として文句のない人間なら、群臣たちも従わざるを得ないでしょう」
「それはいつです? いつまで待てば………………?」
「分かりません。でも、私は早くあなたと日の下を歩きたい」
「有間、私もです」
「間人、私は、しばらく療養と称して牟婁温湯(むろのゆ)に行って来ます。そこで、じっくり事後策を考えるつもりです」
「牟婁温湯ですか? 行きます! 私も行きます! 連れて行ってください」
間人皇女は、有間皇子にしがみ付いた。
「駄目です。あなたは飛鳥に帰るのです」
「なぜです? 私を連れて行って頂けないのですか? 私たちの仲を引き裂くことはできないと言ったではないですか?」
「しばらく自重いたしましょう。私が大王になれば、人目を憚ることなく、こうやってあなたを抱き締めることができるのです」
「でも、私は、あなたの傍にいたいのです」
「傍にいなくとも、体が繋がっていなくとも、心は繋がっています」
それは、男の理論である。
間人皇女は、不安な眼差しで有間皇子を見上げた。
2人は、ゆっくり口付けを交わした。
次の日、間人皇女は飛鳥に戻り、有間皇子は牟婁温湯へと旅立った。