【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第二章「性愛の山」 79(了)
それ以後のことは、正直あまり覚えていない。
気が付いたときは、三井寺本堂の軒先で、蚊に刺されながら、煌々と燃え盛る御山を見上げていた。
まるで夕日に照らされる曼陀羅の金糸のごとく、御山全体がきらきらと輝いて、天寿国にいるような荘厳な情景に、太若丸は思わず見惚れてしまった。
あの業火の中に、幾千の命が燃えている。
安仁は逃げただろうか?
安寿はどうしただろうか?
関係を持った僧侶たちは?
里坊も、囂々と燃えている。
老婆たちは逃げただろうか?
おみよは生きていようか?
女たちは何処へ?
三井寺の僧に、供の安覚はと問うと、
「これが叡山への答えと、首を刎ねられました」
そのまま御山へ首だけ返されたらしい。
胴体は、三井寺が責任を持って、丁重に葬ってくれるらしい。
この度の所業は、普段あれほどいがみ合っている三井寺の僧たちも驚かせたらしい。
「まさか、まことに御山を焼くとは思わなかった」
と、口々に噂をしている。
「脅しを掛けるだけかと思いきや、まことに火を点けようとは………………」
「弾正忠殿も、恐ろしいことをなさる」
「されど、叡山開闢数百年あまり、これほど脆いとは………………」
三井寺の僧の話では、開山以来、何度か戦火に逢ってきたが、この度のような一山灰燼に帰すような事態は初めてらしい。
「なに、叡山の驕りよ」
と、太若丸に聞こえないように、二人の僧侶は話していたが、彼はしっかりと聞いていた。
比叡山延暦寺は、信長勢の攻撃を受け、全山一塵も残すことなく、消え去った。
その時、僧侶だけでなく、御山に逃げた女子どもを含め、三千名余りが首を刎ねられたらしい。
なかには、許しを請う僧もいたそうだが ―― 大抵の者はそうだろうが ―― これを許さず、全て首を刎ねたらしい。
そして、焼け落ちた志賀の地は、信長から十兵衛が賜り、彼はこの地に城を築いた。
のちの坂本城である。
太若丸は、業火に焼かれたとも、首を刎ねられたとも、それとも逃げ延びたとも分からなが、御山のために亡くなっていった者たち、いや、もしかしたら生き残っているかもしれないが、それでも弱い立場の者たちのために、手を合わせてやった。
だが不思議と、悲しいとは思わなかった。
これも、戦国の世の常………………元亀二(一五七一)年九月のことである。
(第二章・了)
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