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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 91

 今年の左義長も大いに盛り上がった翌日、熊野から報せが届いた。

「右衛門尉が……、亡くなったと?」

 追放された佐久間信盛は、高野山から熊野へと移っていたようだ。

「病死か? それとも……」

「病死でござりまする」

 熊野からの使番の言葉に、殿は開け放たれた障子から、しばし空を見つめた後、

「左様か……」

 と、呟いた。

 使番は様子を伺いながら、

「恐れながら………………、ご子息甚九郎殿のことでござりまするが………………」

「なんじゃ?」

「大殿に、お許しを頂きたいと。さすれば、私欲を捨て、織田家のために尽くすと申しておりまする」

 殿は、しばし考えたのちに、

「あい分かった、許す。もともと甚九郎まで責めるつもりはなかったのだから。ただし、織田家の当主は勘九郎じゃ、勘九郎の下につける」

「ありがたき幸せ」

 使番は、喜んで信栄のもとに帰っていった。

 殿は、使番の背中を見送りながら、ぼそりと呟いたのを聞いた、「逝ったか………………」

 織田家の重臣として、信秀、信長と親子二代にわたって仕え、信長と実弟信行が跡目争いになったときも、いち早く信長につき、その後も筆頭家老として権勢を奮った男の最期としては、あまりにも寂しいものであった。

 数日後、信盛の息子信栄は嬉々として岐阜に参上し、信忠に礼を述べたという。

 二十一日には、秀吉が宇喜多家の家臣を連れてきた。

 当主宇喜多直家が亡くなったので、その息子秀家を新しい当主にすべく、殿に許しをもらいに来たそうだ。

 以前の秀吉なら、殿の許しなく、勝手に秀家を当主にしていただろう。

 だが、同じ轍は二度も踏まぬと、此度は慎重を期し、わざわざ安土まで許しをもらいにきたようだ。

「〝猿〟のやつめ、書状で良いものを、わざわざ来よって。胡麻擂りめ」

 と、殿は笑っていたが。

 二十五日、伊勢神宮の権禰宜である上部貞永(うわべ・さだなが)が、式年遷宮の助力を願ってやってきた。

 伊勢神宮は、内宮、外宮とあるが、ともに二十年おきに遷宮が繰り返されてきたそうだ。

 だが、それもお金があってのことだ。

「それで、いつからできてないのだ?」

 内宮は寛正三(一四六二)年、外宮は永享六(一四三四)年が最後だったそうだ。

 神宮側が、お金を出してもらうように朝廷や幕府と何度も交渉したらしいが、まずは資金不足であるということと、そこに内宮が先か、外宮が先かで揉めたらしい。

 それが永遠と続いて………………、

「それでも勅令で、外宮は永禄六(一五六三)年になんとか行うこととなりました」

「それでも二十年近く経つのか」

「内宮は、まだ仮宮のまま、なんとか上様のお力で遷宮をお願いいたしたのですが………………」

「いくら入用で?」

「一千貫ほど………………」

 貞永は、恐る恐る口を開く。

「一千貫?」

 殿が睨む。

「いえ、それほどあえば、あとは勧進で何とか………………」

「それで足りるのか? 先の石清水を修繕する際も、初めは三百貫で大丈夫だとか言っておったが、結局は一千貫かかったぞ。伊勢の遷宮だ、一千貫ではきくまい。勧進といって庶民の懐をいじめこともなかろう。とりあえず三千貫を出す。不足なら幾らでも出そう。岐阜の土蔵にも一万六千貫ほどあったろう、あれもだいぶ古くなって縄なども朽ちていよう、勘九郎に言うて、いま一度新しい縄で結わい、神宮が必要なときに出してやれと。そうじゃな、久右衛門(平井久右衛門)を奉行とする故、何事も相談して進めよ」

 貞永は、喜んで帰っていった。

「神事も、意外に金がかかるものじゃな……、儂の神社を建てるときは、幾らほどかかるのじゃ?」

 二十七日、織田信張(おだ・のぶはる)率いる根来衆・和泉衆を雑賀に遣わす。

 雑賀で、鈴木重秀(すずき・しげひで)と土橋胤継(つちはし・たねつぐ)が対立。

 重秀から、胤継を攻める許しを求めてきた。

 これに応えて、殿は信張を送る。

 胤継は攻め込まれて切腹、その息子たちが粟村に立て籠もった。

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