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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 前編 5

 橘の君が、初めての口付けを経験した日から、霍公鳥は足しげくこの裏庭に舞い降りて来た。

 橘の季節が終わる頃になっても、

「もう、橘も散ってしまいますわ。そうすれば、あなた様もこの庭に降りて来られなくなりますね」

「橘は、実も美しいのですよ」

 と言って通い続けた。

 彼は高向王(たかむくのおおきみ)と言い、用明天皇の孫にあたる人物であった。

 宝皇女は不思議であった。

 あれほど異性の前に顔を出すことを嫌った彼女が、高向王の前では平気であった。

 それだけでなく、高向王と話をすると、素の自分を出すことができた。

 彼の話は気取ったところはなく、かと言って堅苦しいところもない。その話は機知に富み、聞いている者を飽きさせなかった。

 2人は逢瀬を交わす度に、親密さを増していった。

 彼女は、彼の傍にいると言い知れぬ安らぎを覚えた。

 人は、一生をともにする相手を見つけるために生きていると言うけれど、もしかしたら、この人が私の一生を捧げる人かも知れない………………と。

 女性は、恋をすると美しくなると言うが、宝皇女もそれに漏れず、日に日に美しくなっていき、その噂が飛鳥の男たちの口に上った。

 そうなると、急に縁談話が増えるのは当然であった。

「弟が、娘と一度会いそうなのだが」

 と、父の茅渟王が母の吉備姫王に相談した。

 弟は田村皇子(たむらのみこ)で、宝皇女より一歳年上であった。

「田村様がですか? でも、あの子、好きな人がいるのですよ」

「えっ、そうなのか? いつの間に? 何処の誰だ?」

「何処のどなたかは詳しくは存じませんが、もう随分前から」

「知らなかった。宝がそう言ったのか?」

「いえ、言わなくても分かるじゃないですか。あの子、最近綺麗になったでしょう」

 こういうことは、女親の方が鋭いらしい。

「そうか?」

「そうかって……、女は恋をすれば綺麗になります。私も、そうでしたから」

「そうだったかな?」

「どういう意味ですか、それは!」

「いや、なんでもない。しかし、素性の分からぬヤツと付き合っているのは、どうもな……」

「それは男親の考えですね。あの子はいま、初めての恋をしているのです。初恋の相手と添え遂げようとも、そうでなくとも、女にとっては一生の思い出となるのです。それを、親の考えで壊したくはないのです。そんなことをすれば、あの子、一生私たちを怨みますわ」

「しかしな……」

「お願いです、あなた、あの子のこと、信じて見守ってやって下さい」

 吉備姫王の懇願により、2人は宝皇女の交際を温かく見守ってやることにした。

 高向王の言ったとおり、宝皇女の橘の実が黄色く色づき、心地よい香りを漂わせるよういになると、彼女の気持ちは深く沈んだ ―― 実が落ちてしまえば、もう霍公鳥は来ないのだと。

 男は、それを知ってか知らずか、橘の実を褒める。

「思ったとおり、良い実がなりましたね。美味しそうですね」

 高向王は、実を一つもぎ取った。

「美味しい? いえ、酸っぱいですわ」

 ―― ニッポンタチバナの実はとても酸っぱい………………

「そうですか? 祖父の屋敷の橘はとても甘かったですよ」

「いえ、酸っぱいのです。酸っぱい実は、誰も見向きもせず、落ちて萎んでいくのです」

 宝皇女は、悲しげに目を伏せた。

 高向王は、彼女の体を引き寄せた。

「この実は甘いですよ。霍公鳥が言うのですから間違いありません」

「嘘おっしゃって」

「嘘ではありません。霍公鳥は、この実を食べたいのです」

 高向王は、宝皇女を見つめた。

「本当? では……、お試しになって……」

 宝皇女も彼を見上げた。

 2人は、二度目の口付けを交わした。

 高向王の手から、橘の実が転がり落ちた。

 その夜、宝皇女の寝室には、開け方近くまで明かりが灯っていた。

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