【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その三 おりつの一件始末 9
伝兵衛は、ひとりの男を連れて戻ってきた。伊之助である。髪も半分が白く染まり、顔にも染みが点々と浮かび、60過ぎという年齢相応の風貌であったが、背筋をぴんと伸ばし、胸を張って座る姿は、はつらつとしたものがあった。
惣太郎たちが相対して座ると、伊之助は大仰に頭を下げ、詫びた。
「大変、申しわけごさいません」
この言葉で、ある程度察しがついたが、取敢えず尋ねた。
「いかがいたしました」
「はっ、こちらから書状を頂き、すぐさまおくまさんのところに行ったのですが」
鮸膠もなく断られたという。
「まあ、むかしから強情なところはあったのですが、それが先代の甚左衛門さんが亡くなってから、頓に酷くなりまして。まあ、息子のほうがまだまだですので、一人前になるまで、自分が家を守らねばならないという強い意志もあるのでしょうが、いや、しかし、あれほどとは……」
散々おりつの悪口を聞かされたあげく、金の一件は拒否、そればかりか、
「嫁に行ってから出て行くまでの、おりつさんが食べた物や使った物などの金を、事細かに請求されました。全部で、二十両ばかり、そこに趣意金三十両ですから……」
嫁入り時に受け取った金とあわせて、六十両 ―― とてもじゃないが、勝五郎が払える額ではない。
「強欲ですね」
惣太郎は呆れてしまった。
「全く、強欲婆です。むかしは、もう少し可愛げがあったのですが。しかしまあ、仲立ちのほうはどうも上手くいきませんで、大変申しわけありません」
期待していない………………といえば嘘になる。良い答えが聞けるのではないか。案外簡単に事が運ぶのではないかと、軽い気持ちで待ち構えていた。
あてが外れて、少々がっかりだ。
「しかし、おくまはなぜそれほどまでに、金に拘るのでしょう。跡取りが欲しければ、息子とおりつをすぐに別れさせて、他の女とくっつけさせたほうがいいように思うのですが」
「はあ、全くその通りでした。実のところ、おくまさんもそれを望んでいるのですよ」
「では何ゆえ、金を出せと無理難題を押し付けて、話を長引かせているのです」
「息子が、おりつさんに執着しているのです。あれは、小さい頃からおくまさんに溺愛されてきましたので、お袋さんのいうことなら何でも聞きます。反対や拒否したことはありません。ただ一度だけを除いて。それが、おりつさんとの婚姻なんです」
当時、おくまは、甚左衛門の嫁にと、他の娘をあてがおうとした。だが、甚左衛門はおりつに想いを寄せていた。彼は、母の薦める縁談を断り、おりつと一緒になりたいと言った。
「そりゃ怒りましたよ、おくまさんは。名主であるうちに、貧乏百姓の娘の血を入れたくないと。しかし、息子のほうは、どうしてもおりつさんと一緒になりたい、おりつさんでなければ死ぬと駄々を捏ねまして、まあ、おくまさんのほうも、そうまで言われれば無碍にもできせんし、息子は可愛いもので、ただしと条件をつけてようやくおりつさんと一緒になれたのです。そんな理由(わけ)ですから、息子のほうがどうしてもおりつさんと別れるのは嫌だと申しておりまして、まあ、おくまさんとしては、出て行ってくれて清々としているわけですが、可愛い息子がそう言っているならと、金なんてことを持ち出して、渋っているわけでございます」
なかなか話が複雑になってきた。
自分の身体を売ってでも金を作り、夫と別れたい女。
金がないので、可愛い娘には申しわけないが、嫁ぎ先へ戻れという父。
どうしても、女房と一緒にいたいという亭主。
嫁には出て行ってもらいたいが、息子のために仕方なく、金という難癖をつけて離縁を拒む母。
いったい、どうすれば丸くおさまるというのだ。
「立木殿、ここは考えても仕方がありません。夫のほうも呼び出して、よくよく話を聞きましょう」
清次郎の勧めもあって、惣太郎は甚左衛門に呼状を出した。
といっても、夫を呼び出したからといって、話がまとまるわけではない。一番良いのは、夫がおりつを諦め、おくまが金を諦めてくれる。そうすれば、おりつにも、勝五郎にも負担はない。
「うむ、これだな」
と、惣太郎は夜具の中でひとり呟いた。
初めての駆け込みを受け持ってから、寝床に入っても、あれやこれやと色々考えて、なかなか寝付けなかった。
身体は酷く疲れているのに、頭が妙に覚めている。
そうだ、もともと無理な縁だったのだ。
おりつには、好いた男がいた。
だが、甚左衛門が懸想し、金に物を言わせて分捕った。
悪いのは甚左衛門ではないか。
そうだ、全て男が悪い。
そう結論付け、あとは何も考えないことにした。
ただ目を瞑る。
風が戸を打つ音に、ひそひそと人の話し声が混じる。
聞き耳を立てると、どうやら新兵衛の部屋かららしい。夫婦で話しているようだ。何を話しているのかは分からないが、ときどき女の声が大きくなって、それを男が宥めるかどうかしていようだ。
やがて、その声も小さくなり、惣太郎もそのまま短い眠りについた。