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閑窓随筆 ~『法隆寺燃ゆ』奴婢って何ですか?

『法隆寺燃ゆ』掲載にあたり、肝心の説明を忘れていました。

 弟成たちが所属する集団 —— 「奴婢」のことです。

「奴婢」は、「ぬひ」といいます。

 両方の漢字に「女偏」がついてますので、女性のことをいってるのかと思われるかもしれませんが、「奴」は男性、「婢」は女性のことを表します。

 さて、「奴婢」というのはどういった集団かといいますと………………漢字そのもの —— 「奴隷」です。

「日本には奴隷制度はなかった!」 —— 「だから日本は素晴らしい国だ!」

 と、「日本は美しい国」論を論じる人が多々いますが、奴隷というのが、

『人間が生まれたときから持ちうる権利・自由を認められず、他人に所有物として扱われ、金銭(または物品)によって売買されるもの』

 と定義をすれば、日本にも奴隷制度 —— 制度というもので規定されなくとも —— というもはありました。

 貧しい親が、自分の娘を女衒(ぜげん)に売るのなんて人身売買で、その娘は女郎屋で権利や自由をはく奪され、働かされるのだから、奴隷制度そのものです。

「それは親や娘の自己責任だ! だから、奴隷制度ではない!」

 などというのは屁理屈です。

 こういった歴史的事象を客観的に観察しないことが、日本の現状を表しているのではないでしょうか?

 ちなみに、アメリカ国防省から「人身売買根絶の最低基準を満たさない国」(2012年)に位置づけられています。

 まあ、あまりこんな話ばかりしてると、思想の違う人たちから叩かれ、炎上しそうなので………………

 さて、古代ではどうだったか?

『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』に、倭国の王が「生口」(奴隷)を献上したとの記述があります。

「生口」は奴隷ではないという説もありますが……

 もう少し進んで、律令制度化(奈良時代)では、「五色の賤(せん)」という階級制度がありました。

 この辺りは、高校の教科書にでてきましたかね。

 一般の人は「良民」と呼ばれ、「官人」「公民」「品部」「雑戸」に分けられていました。

 その下の人たちは「賤民」と呼ばれ、「陵戸」「官戸」「家人」「公奴婢」「私奴婢」の5階級に分かれていました。

「公奴婢」と「私奴婢」が、権利と自由のない、売買対象の奴隷です。

 その前の飛鳥時代はどうだったのか、詳しいことは分かりませんが、多分同じような状況だったと思っています。

 弟成は、元上宮王家(厩戸皇子一族)の奴婢なので、「私奴婢」に属します。

 上宮王家滅亡後は、「寺奴婢」 —— 斑鳩寺(法隆寺)は官寺ではないので、「私奴婢」と同じです —— になりました。

 ちなみに、弟成たち奴婢の名前ですが、少し時代は下りますが、『東大寺奴婢籍帳』などがあり、そこに記載のあった名前からとっています。

 決して、作者の思い付きではないんですよ。

 では、奴婢がどういう生活を送っていたのかというと………………、すみません、ここは多くが想像です。

 ただ、奴婢が売買されていたのは事実のようです。

 金額はそれぞれの奴婢によって違いますが —— この時代、まだ貨幣経済は定着してませんので、物々交換 —— 稲で売買されていました。

 やはり、働き盛りの男性は高値だったようです。

 ただ、ときには若い女性が、それよりも高値がつくことがあったようです。 

『但馬國司解(たじまのこくしのかい) 申進上奴婢事(しんしんじょうぬひのこと)』には、

 24歳の奴(男性奴隷)、池麻呂(いけまろ)・糟麻呂(かすまろ)が、それぞれ稲900束で売買されたのに対し、

19歳の婢(女性奴隷)、田吉女(たよしめ)が稲1000束、17歳の婢、小當女(おとめ)が稲950束で売買されています。

 最大の労働力となりうる青年よりも、女性に高値が付いたということは、彼女たちが特殊な職業技能を持っていたか、あるいは八重女のように………………

 作者としては、きっと機織りなどの特殊な技術を身に着けていたのだろうと思いたいところです。

 ちなみに、奴婢の逃亡もあったようで、逃げた奴婢を探しているという記録も残っています。

 弟成たちの属してた奴婢という集団は、こういった制約を受ける、最下層の集団だったのです。


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