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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 6

 権兵衛がほっと嘆息して、その場にいた一同夢から覚めたように、我に返った。

『その夫婦の仲裁のせいで、呼び出しに遅れたというのか』

 いえいえと権兵衛は首を振った。

『それは夏の話でして、いまのは夫婦の仲の例え話でございます』

 ならば、なぜそんな長い話をしたのかと、惣太郎は呆れた。

 ただの、話好きの爺のようだ。

『夫婦とは分からないものというのを言いたかっただけでして、そういう一件がありましたので、もしかしたら寅吉とおみねの間にも、我々が知らないようなことがあったのではないかと思いまして、こちらに伺う前に、一応は寅吉のほうも事情を聞いておいたほうが良いと思いました次第で。そのほうが、お役人さまのお手を煩わせることもなかろうと思いまして』

『なるほど、それは殊勝な心がけだ。だが、話を聞くなら1日で終わろう』

『それが、この寅吉という男、家に帰ってこないのですよ。おそらく賭場にでもいるのだろうと待っていたら、5日も帰ってこない始末で。痺れを切らして使いの者を遣わしても、全く帰ってくる様子はなく、全く女房が出て行ったのに何を考えてるんだ、これはおみねが駆け込んだものを頷ける、もう離縁させるのがよかろうと思ったところに、ようやく帰ってきたのです。お前さん、女房が寺に駆け込んだって言うのに、采の目を追いかけていたのかいと叱りつければ、運が向いてきたんで止めたくはなかったなどと言うではありませんか。もう私は頭にきて頭にきて、すぐにでも三行半をかけと怒鳴ってやったのでございます』

 だが、寅吉はそれを拒んだ。

 少しは旦那としての自覚があるのか、おみねを迎えにいくと言い出した。

『今更お前さんが行ってどうにでもなるものではない、おみねもお前さんに愛想を尽かしたんだよといえば、寅吉のやつ、どうしたと思います』

 逆に問われて、清次郎は少々むっとしていた。

『何とした』

『それが、泣くではありませんか。さめざめ涙を流し、すまねえ、おみね、すまねえ、帰ってきてくれと。いや、寅吉が涙を流すのなんて、私は初めて見たものですから、驚いてしまったのなんのって、なあ、七郎さん』

 それまで一言も口を開かなかった七郎が、やはり口を開かないまま、頷いて見せた。

『そして、私どもにこう言うですよ、大家さん、今日から心を入れ替えるから、おみねを説き伏せてくれと、おみねなしじゃ生きてはいけない、それでもおみねが離縁するというのなら、大川に身を投げるなどと言いますから、まあ、待て待て、身投げなどと早まるな、本当に心を入れ替えて働くんだね、おみねを大切にするんだね、夫婦仲良く暮らすんだねと何度も問いますと、しっかりと頷きますので、それじゃ、おみねを説き伏せようと来た次第でございます』

 この話を聞いて、惣太郎は聊か疑念を抱いた。人というのは、そんなに簡単に変わるものなのだろうか。

 酒を止める、もう暴力は振るわないと誓った男が、一月(ひとつき)もしないうちに酒を飲み、女に手をあげた一件を処理したばかりだ。

 どうにも胡散臭い。

 と、考えている自分に気がつき、惣太郎はいよいよ寺役人の癖がついてきなと思った。つい数ヶ月前の自分なら、歌舞伎の演目にでもなるような話を聞けば、感動するほどの青二才だったが、寺役見習として数件の縁切りを見るうちに、人を疑う癖がついてしまったようだ。

 役人としては必要な特技ではあろうが、ひとりの人としてどうなのだろうと、世の垢に汚れていくようで、少々寂しい感じがした。

 清次郎は、明らかに疑いの目を持っていたようだ。

『あのような話、信じられません』

 と、言い切った。

『きっと、何か隠し事があるのでしょう。あるいは、寅吉に幾らかもらっている可能性もあります。寅吉という男が、真実(まこと)に権兵衛たちの言うような男であるか、少し調べてきて欲しいのです』

 清次郎の依頼を受けて、惣太郎は板橋周辺を調べまわった。

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