ローン・ラニングの師、ジャック・ゴールドスタイン
Oddworldユニヴァースの設定資料とラフスケッチを収録した『Abe's Origin』(2020)内インタビューで、ローン・ラニングはアーティストの条件たるものをジャック・ゴールドスタインから学んだと話す。真に哲学的でアーティストの中のアーティスト、商業で成り立つアートの世界で生きられなかった男としてラニングはゴールドスタインを憐れみ、尊敬している。
人生の大半を孤立に費やしていたジャック・ゴールドスタインは、アーティストになる前からその傾向があった。1945年にユダヤ人家庭に生まれながらも洗礼を拒み、両親から虐待を受け、同世代の西海岸生まれの若者がハマっていた文化、たとえばグリーサー(50年代に米国の労働者階級間で流行したストリート文化)のようなものにも馴染めなかった。唯一の関心事であって美術への造詣を深めるしかないと判断したゴールドスタインは、当時ウォルト・ディズニーがカリキュラムを再編したことで注目を集めたという美術学校「California Institute of Art」に入学し、72年に同校の修士号を取得する。その後、ジョン・バルデッサリ(2020年没)の講義を受け、それまで手がけていた抽象表現からコンセプチュアル・アートへと舵を切った。バルデッサリは写真を流用した、いわゆるファウンド・アートの作り手であり、後にゴールドスタインを含めた「ピクチャーズ・ジェネレーション」と呼ばれる作家たちの大きな影響元であった。
ピクチャーズ・ジェネレーション
ゴールドスタインがアーティストとして認知(評価)されたきっかけは、77年9月24日から10月29日にかけてニューヨークのArtist's Spaceにて開かれた『Pictures』だった。美術評論家ダグラス・クリンプが企画した合同展で、ゴールドスタインはロバート・ロンゴやトロイ・ブラウンチらと共に評価されていく。同展示から台頭してきた作家たちは、包括して「ピクチャーズ・ジェネレーション」と呼ばれた。作風以外の特色として(『Pictures』自体には参加していなかったが)バーバラ・クルーガーやシンディ・シャーマンなど女性作家の活動が顕著であったことも挙げられるが、ここには当時Artist's Spaceのディレクターであったヘレン・ワイナーの尽力が大きかった。また、彼女はゴールドスタインがまだ学生であった70年からの交際相手でもあった。
『Pictures』の主旨は「現実をいかに認識するか/しているか」であり、50年代のポップアートやネオ・ダダといった運動の流れを汲んでいる。表現が社会の中で機能している時、そこに作者の意図が介することはなく、その作品は環境の一部となっている。『Pictures』にはこのようなポストモダン的な視点が強く反映されており、自由や革命といった概念に立脚していた60年代の芸術運動よりもニヒルな性格を持っていた。作家の個性よりも、その人を取り巻く現実、そこに何があるのか。ニューディール政策によって「設定された」一本調子の希望が溢れた50年代と、ヒッピーのような救いのモダニズムが現れた60年代、この二つの期間の米国時代精神への反動がピクチャーズ・ジェネレーションのニヒリスティックなステートメントを形作るものであったといえるだろう。
ゴールドスタインは『Pictures』展に二つの映像をもって参加した。そのうちの一つ、『Metro-Goldwyn-Mayer』は、ハリウッド映画冒頭で流れる制作会社のジングルをループさせたものである。ゴールドスタインにとってミニマリズム自体は馴染みのある切り口であり、それは72年の映像作品『A Glass of Milk』にもうかがえる。しかし、『A Glass of Milk』のように原因と結果からなる一種の明瞭さが『Metro-Goldwyn-Mayer』にはない。「あらゆる映画の頭に乗っかっているジングル」を切り離すことで、その商業的な偏在が逆説的に説明されている。
悲観的観察者
イメージを流用することでアイロニカルに象徴性を表すピクチャーズ・ジェネレーションの中でも、ゴールドスタインの表現は暗いイメージを伴うことからひときわ異質に見える。これはゴールドスタインが、ロバート・ロンゴやバーバラ・クルーガーのように「売れる」作家になれなかったことと無関係ではないだろう。ピクチャーズ・ジェネレーションの他作家と同じように、ゴールドスタインも作家性を消すことで大量消費社会の日常に混ざり合う心理的な効果へと意識を向けさせたが、その実、彼の行動原理は自身の存在を知らしめることだったと2001年のインタビューで告白している。幼少時から体験してきた恐怖と孤立が彼の動機であり、個性となってしまったと考えるのは、皮肉だが間違いではない。個人的な意味でのトラウマ的なリアリズムがゴールドスタインの芸術だった。
潜在的に作品へと反映されるゴールドスタインの恐怖心が、時代のそれを先取りしたように思える事例さえある。吠え続けるシェパードをとらえた『Shane』は『Pictures』で公開された二作品のうちの一つだが、奇妙なことに翌年のニューヨークで発生した連続殺人事件、通称「サムの息子」事件の背景にいるとされたカルト教団がシェパードを儀式的に殺害することが判明し、シェパードは米国市民にとって不安のシンボルとなった。
ゴールドスタインはサウンドによるミニマリズムにも手を伸ばし、いくつかのレコードを作っている。76~77年に発表した9枚のカラー7インチシングルは、それぞれに効果音、つまり作られたサウンドを収録したものだった。内容だけならば映画のSFXを記録したレコードと同じだが、ここで重要なのはゴールドスタインがネガティブなイメージを伴うものを意図的に選んでいることにある。特に溺れた人間の声(正確には、それを模したものとされている)を収録した「The Six Minutes Down」や、グラスの割れる音と落雷などのソースが延々と続く「The Murder」のアイデアは、同時期の英国で勃興したインダストリアル・ムーヴメント、特に60年代の産物にしてバックラッシュだったCoum Transmissions~Throbbing Gristleによる音響表現や悲劇的イメージ(主にホロコースト)の使用とシンクロしている。80年代に入ると、まるで宇宙が舞台のビデオゲームのために作られたシンセサイザー・ポップ調の10インチBOX『The Planets』を発表するのだが、これも当時のレーガン政権の繁栄と冷戦の恐怖がいっしょくたになった時代を反映させた結果なのだろう。なお、ゴールドスタインのレコードはほぼすべてがUbuWebにアーカイヴされている。
80年代前半からカセットマガジン『The Audio Cassette Magazine』を発行していたグループ、Tellusが88年にリリースしたコンピレーション・カセット『Anthology Of Audio By Visual Artists』(1988)。タイトル通り、ヴィジュアル・アーティストによる音響芸術がテーマで、ラウル・ハウスマン、ヨーゼフ・ボイス、ノーウェイヴ・グループY Patns、そしてゴールドスタインらが参加。コンセプチュアル・アート史に一本の線を引くようなラインナップになっている。
「無題」 (1982)
80年代からのゴールドスタインは、イメージの流用というコンセプトをペインティングで表すために他者を雇う体制をとった。バルデッサリのように実際の写真の使用とペインテ当時、ィングを複合させて対象をハイパーリアリズム的に描くことを、ゴールドスタイン本人は「スペクタクル・インスタント」と形容した。そこには超自然的とも呼べる印象を生む光景を記録し、人間の感情を圧倒する力、または個人が「それを感じられること」を炙り出す意図が含まれていた。これもまた、ゴールドスタイン流のトラウマ的リアリズムであり、強迫的な美しさを核とする点でシュルレアリスム芸術との共通項だ。同時代的なものでは、当時のフランス発の美術批評の影響が強かったとラニングは後に述懐している。とりわけポール・ヴィリリオが提唱した「速度論」、テクノロジーの進歩と戦争行為のパラレルだが避けられない関係の指摘は、コンピュータ・グラフィックスを肉眼で捉えられないラインから先を知覚させるためのアートフォームであることをゴールドスタインに意識させた。描かれた対象は火山の噴火や飛行機の離陸直前などで、もっとも過激(かつ速い)な例は発射されるミサイル群だった。80年代に目覚ましい技術躍進を見せていたコンピュータ・グラフィックスへの関心も、テクノロジーが持つ一種の完全性(とそれがもたらす驚異)から派生したものだった。ゴールドスタインはある時から科学雑誌を大量に購読し、そこに掲載されている写真を素にした絵画を「生産」し続けた。人間ではなく機械が出力したような完璧なフォルムを捉えたそれを、人間の手によって作り出すということだ。この倒錯的かつ非人間的なコンセプトはウォーホル的だが、そのスケールと深刻さは上を行っている。兵器へのオブセッションに関しては先にも名を出したThrobbing Gristle的インダストリアルはもちろん、ファシズムを美学的に流用したパンクとも無関係ではない。違いはユーモアや挑発性として表れる純朴さがなく、ひたすらに重く堅苦しいのだ。CGという分野の執着に関しては、76年にもロトスコープで捉えた人間の挙動を記録した『The Jump』(2013年に没後10年を記念して、タイムズスクエアで上映された)を発表していたゴールドスタインにとって、特撮技術は新しい表現の萌芽であると同時に、批判の対象であったハリウッド的なものの象徴という二律背反を持つものであった。この切り離せない関係への執着も、ヴィリリオ的なテクノロジー社会の認識である。
当時、CGによるイメージの「描きおこし」作業にあたっていたスタッフの一人が、ローン・ラニングだった。彼は当時ゴールドスタインが教鞭をとっていたSchool Of Visual Artsでイラストレーションを学ぶ、まだ成人したてのアーティスト見習いだった。
批判的観察者
ラニングがスタッフとして入ってきた85年終わりごろまたは86年頭の時点で、ゴールドスタインはアートの世界から少しずつ距離をとり始めていた。抽象とミニマリズムへの反動であり、ギャラリーにとっても扱いやすかった80年代のニュー・ペインティングブームが、ゴールドスタインのようなアーティストにとって逆風だったのは大きな要因だろう。画商やコレクターをスタジオからつまみ出すことでも知られていたゴールドスタインにとって、コマーシャリズムやビジネスの概念は表現の題材であり、自分の生活で反映させるものではなかった。これが彼の作家生命を座礁させたのは間違いないが、何よりも深刻なのはドラッグだった。簡単にドラッグが手に入るニューヨークでの生活を危惧したスタッフたちは、ゴールドスタインへ西海岸に移住するよう提言したが、経済的な事情でニューヨークから離れるのは難しかった。結果、同市北部のキャッツキルに新しいスタジオを設立することとなり、ラニングは創作と生活の両面でゴールドスタインを補佐すべく、美術学校をやめて彼と衣食住を共にするようになる。アートの世界でも孤立し始めていたゴールドスタインだが、ラニングらスタッフと熱心なファンであるディーラーの協力で、80年代後半に彼の再評価が起こった。しかし、万ドル単位で取引されるようにまで持ち直しても、ゴールドスタインは依然としてドラッグから離れられなかった。当時21歳だったラニングはこの生活に限界を感じ、胸を痛めながら書置きを残してゴールドスタインのもとを去った。ここでの経験はラニングにアートフォームとしてのVFXへと向かわせ、この技術に触れるためには良くも悪くも資本側に接近しなければならないという現実にも直面させた。こうしてスタジオから退いたラニングは、宇宙航空事業にしてミサイル巡行関連の研究にも着手していたTRWに就職する。『スターウォーズ』に出てくるレーザー兵器を実際に設計したり、「シミュレーター」として仮想の戦争を描画する研究が行なわれていたことは、メディアの発展が戦争の発展に繋がることを意味していた。
ラニングがゴールドスタインから学んだことの一つに、アーティストは観察者の視線を絶やさないことが挙げられる。20近く年齢差のある二人には世代ゆえに現実の認識にも違いが表れていた。ゴールドスタインは不安を醸し出すイメージを常に流用してきたが、これは60年代の終わりにやってきたスタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(1968)の存在が大きい。ラニングがゴールドスタインのペインティングを手伝っていた頃、夜を捉えた絵を描く時に「キャンバスと絵を一体化させて一つのオブジェに、『2001年宇宙の旅』のモノリスのようにするべきだ」という指示が出されていたのは象徴的である。すべてを呑み込んだ黒の板は、ゴールドスタインの悲観的ヴィジョン、自由を求めた60年代の終焉を告げるシンボルだった。
対して、ラニングの観察者的目線はあくまで世界を批判的に見ることであり、ある種のプラグマティック(最悪の中でも最善を尽くす)な態度がうかがえる。それは世の中の歪な力学をユーモラスに描いたOddworldユニヴァースを見れば明らかだろう。幼少期に観たジョージ・ルーカス『スターウォーズ』(1974)で描かれた、高度に発展したテクノロジーと、フォースとして表現される精神的なアイデアは、前の20年間の代償として傷つき汚染してゆく70年代に告げられた希望的観測だった。
VFXという成長目覚ましい分野に自己の理念と結びついた表現の可能性を見たラニングは、最短距離の回り道として企業の一部になった。幼い頃からアートしかなかったゴールドスタインは他に歩む道がなかった上に、心身の疲弊が彼にそれ以外を許さなかった。晩年のゴールドスタインは郊外に小さなトレーラーを構え、まるでヒッピーのような生活を送った。違いは徹底的に自己完結であり、独りだけの空間を維持したことにある。彼はこの部屋に大量の哲学書を運び、それらから切り取った文章を繋ぎ合わせて自伝を書き始めた。膨大なページ数だったとされるそれは、一冊の本になることが決まったのだが、その矢先の2003年3月14日にゴールドスタインは自死してしまう。それはまるで出版がきっかけになったかのようであった。
自伝にとりかかっていた時期、ゴールドスタインは「言語は我々の所有物の中で最も危険なものである」と発言している。彼が死の直前まで哲学書や伝記から切り取った文章で自伝を記していたことは、「言語はウイルス」と論じ、偏在する情報の渦中で生き抜くメソッドとしてのカットアップを実践していたウィリアム・バロウズを思い起こさせる(そういえばバロウズもドラッグ・ジャンキーであった)。二人は破滅的な点で共通しているが、ゴールドスタインはバロウズのように破天荒にはなれず、静かに沈んでしまった。退廃と無力感が混ざり合ったゴールドスタインの生と芸術は、むしろ資本主義リアリズム的鬱屈が蔓延する今にこそ存在感を発揮するのではないか。