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みじめ
「みじめ」という感覚を考えている。
久しぶりに実家に帰ると、
父親、母親の意地悪にも感じる、
ネガティブに感じる言葉の数々に
だいぶ参ってしまった。
誰もがそう感じるかどうかなんてわからないから、
僕がそう感じたなら、
それは僕に取り込まれので、
大切な経験として、
実りへつなげようと想うのだ。
お別れの時が迫って来ていることを感じる。
「誰か」や世の中、彼らの信じる「普通」に向けた想いが、
自身に向かう姿が見えた…
これから散っていった先の「自分」とは
「世」そのものになると僕は感じている。
だから、もう「みじめ」な人を創って、
自分がみじめにならなくてもいいから…。
けっきょく今は「・・・!」と感じた想いで
両親を説こうもんなら、たちまち理解力の衰えで
「みじめ」な想いにさせてしまう。
深淵な賢い提案をしたところで「迷惑」を与えてしまう。
「迷惑」もよく彼らから出てくる言葉だな…
話すのも面倒くさいと言われるので、
僕も話すのが面倒くさくなって、
黙って飯を食った。
出来ることが出来なくなったことより、
出来ることを見護る気持ちで。
別れ際にハグが出来たこと。
一番大切なことが出来てよかった。
さて独りになって、
「みじめ」について考えている。
父があの僕と同世代のフォークデュオ「ゆず」のことを
「みじめ」だと言ったことが、
まったく理解出来ないんだ。
ゆずがみじめなのか、父がみじめなのか…
ゆずが今年、紅白に出るらしい。
それがみじめなのか。
ヒットを飛ばさなくなったことがみじめなのか。
まぁ、どちらかというと、
ゆずは有名になって、同世代で横浜で歌っていた僕が、
未だに音楽をやりつつも、
泣かず飛ばずの売れない音楽家志望の40代。
という方がみじめに見えそうだし、
そう思われても、僕としてはすでに
同じ「音楽」でも
全く違う人生なのだから、
みじめにされても困るし、
僕には全く差し支えない。
そう。
みじめに見える僕が、
みじめと感じてなかったら、
「みじめ」な人は
どこにいるんだろう?
他人のことはわからないので、
僕の感知しえる「みじめ」を
考えてみた。
さっきの「泣かず飛ばずのミュージシャン」
ってのはわかる。
感知出来る。絶賛誠実に昇華中だ。
だいぶ存在感無くなったけど。
あとは、、、
何日も風呂に入れなかったら、
住む家がなかったら、
みじめかもしれない。
高田渡が歌ってたな…
寄る辺ない女はみじめ。
寄る辺がないとみじめと感じるだろうな。
靴がない。
望まない場所にいて、
誰からも与えてもらえない。
みんなが持っていて、
僕は持ってない。
だんだんと概念的になってきたぞ。
そうだよね。
惨めと感じることに抵抗したり、
優劣感じたり、
みじめさを知らないことが
偉いわけじゃない。
ただ、感じた正直な心は僕のもので、
さて、心を鎮めて、
そんな現実あるよね。
現実をどうしよう。
出来ることをしよう。
感じて動こう。
どうすればそんな気が流れてゆくか、
絶対わかる。
生きてるからわかる!
あぁ唄いたいなぁ…
でも「聴いてください」と言って
圧をかけたところで届くわけもないし。
でも、誰かが聴いていようがいまいが、
歌っていれば、歌っていない時でも、
歌ってるんだよね。
びっくりするよ。
「歌ってないのに届いてる…」って。
親を見て、本気で想って、
何とかそうなって欲しくて
言ってしまった。
僕は本当にそう想ったんだ。
「念仏唱えておけばいいんじゃないかな」
身体とのお別れが近づいてきた時、
出来ることは「健やかな想い」を巡らせること。
その想いは、身体が滅しても残る。
と、想いを巡らせること。
親を見てると、おそらく、
想うこともままならなくなるように感じる。
だから、呪文のように、
身体も心も健やかな瞬間に閃いた言葉を、
祝詞として携えておこう。
「地獄へ堕ちろ」と歌っていたら、
誰かに向けて歌ってた想いも
自分へ却ってくるだろう。
「天国へ行こう」でも
「天国へ行ってね」でも
どっちでもいいけど、
「天国」がいいね。
天国がどんなとこか知らんけど、
いつも歌ってたら、きっと絶対、
「あれ?天国ってここか♪」
と想う瞬間があります。
(「あれ?地獄ってここか」
の瞬間はいかがですか?(笑))
自動的に好い想いの言葉が出て、
そうなればいいな。
両親をそっちの響きに乗せるために
帰ったんだな。
準備が出来ていないなら、
南無阿弥陀と唱えればいいんだと、
親鸞上人は言っていたそうじゃないですか!
お念仏と共にただ、出来る限りで踊る。
きっとそれは僕には美しく響くだろうな。
出来る限りの手を上げて下すだけでも、
そう身体が望むなら、
それは人生最高の踊りとなるだろう。
最期、ちからつきるとき、
きっとそれは
「静」という「動」に
なるんだろう。
この世は続くよどこまでも。
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