アイアム日本人
今このnoteの中で「好きな日本文化」についての記事を書こうというお題が上がっている。「#好きな日本文化」をつけて皆がそれぞれ自由に日本文化についての記事を書き、良いものは公式SNSで紹介されるかも知れないという内容。
note内では随時様々なお題が提示され、その度多くの人が参加しているが、今回初めて僕もそれに参加してみようと思う。
というのも「好きな日本文化」というお題が単純にとても素晴らしいものだと思ったから。
海外の文化がどんどん日本に輸入され、日本人が自国の文化に目を向けようとしなくなってきている昨今、今一度日本人に自分の住む国の文化の素晴らしさを気づかせるためにとても意義のあるテーマだと思う。
そもそもなぜ日本人は自国の文化に目を向けなくなってしまったのか。
理由はおそらく外国の文化は派手でわかりやすいからだと思う。
大味にして大仰。そういったものは瞬間的に爆発的なインパクトを与えられる。そのある種の押し付けがましさとも言える表現はこちらから感性で歩み寄ることを必要とせず、否が応にも理解させてくれるわかりやすさがある(行き過ぎてなければ)。日本人よりも自己を強く主張する性格がそのまま表れているのだと思う。
対して日本の文化は表面上地味なものが多い。“引き”の美学が根底にあるからだとも思うが、あまりにも物が溢れすぎていて人々が目移りしやすい現代において、一つのものにそこまで深く入り込んで鑑賞しようとする人などそうはいない。そんな中でしっかりと向き合ってこそその深みを理解できるものが多い日本文化はちょっと面倒なイメージがあるのだと思う。そのせいでその魅力に気づかないままもっとわかりやすい別のものに興味が移ってしまうのだろう。
つまり今の世の中では、いかに瞬間的に目につきやすいものを提示するかが重要になってくる。そうなると結局派手なものが人の目を引き、地味なものは素通りされてしまうというわけだ。
勿論派手で大味な海外文化が薄っぺらいと言っているわけではない。素晴らしいものはたくさんあるし、僕自身も影響を受けているところも多くある。ただあまりにも現代の日本人の外国コンプレックスがひどいように感じるのだ。やはり自国の文化の素晴らしさに気づけていないからだろう。
例えば僕はロックが大好きだが、ロックとは元々外国発祥の文化である。それを日本人がやる場合、偉大な外国のミュージシャンに憧れ影響を受けるのはいいが、外国のミュージシャンみたいになろうとする考え方はいただけない。アメリカ人やイギリス人に日本人がなろうとしてもアメリカ人やイギリス人には敵うはずがないのだ。ロックという音楽を日本人がやるということ自体が世界的な目線で見たら特殊なことなのだから、やはりそれは個性として最大限利用すべきだと思う。だからこそロックというジャンルの中でも日本人にしかできないであろう表現を追求している人が僕は好きなのだ。そしてそれはあらゆるジャンルに当てはまることでもある。
前置きが長くなったが、僕の好きな日本文化はいろいろあって、まずは何といっても日本画である。
元々絵画に興味を持ち始めた頃は西洋画から入ったのだが、年を重ねるにつれ西洋画の画面を隅々まで埋め尽くす情報量の多さや油の量がだんだんと重く感じるようになってきてしまったのだ(今でも好きではあるけど)。
それに対して日本画はというと、とにかく画面が静かである。あえて「余白」を設けていることによって最低限の情報量でテーマが伝わり、そしてそこから感じ取れるのは押し付けがましい思想よりも風情や風流といった全ての日本人の根底に眠る郷愁感を呼び起こさせる感覚。
勿論日本画と一言で言ってもその中でのスタイルは様々で、作品によっては派手なものや強烈なものもあるが、基本的には上で述べたように風情を伝えてくれるものなので、爆発的なインパクトというよりは体の内側からじんわりと温めてくれるような作品が多い。素晴らしき日本文化の一つである。
続いて落語。
まあお笑い芸人なので当然といえば当然と思うかも知れないが、実は僕と同世代くらいの芸人達でも落語の楽しみ方がわからないという人はかなり多い。
理由はまさに上で述べたことに尽きるが、5分程度の時間の中で詰め込めるだけ笑いを詰め込んだネタを見て育ってきている僕ら世代の芸人にとって、数十分にも及ぶ時間に、演目によってはほとんど笑い所のないものもあり、たった一人で喋りと最低限の動きのみで全てを表現し、しかも舞台は現代ではなく江戸時代まで遡ったりする。
そりゃあ共感できるはずはない。こちらの想像力に相当委ねられる芸だと思う。ネット世代の現代人が30分も40分も(演目によっては1時間をも超える)頭を働かせながら見るのははっきり言ってしんどいだろう。
しかしそれでも芸人は落語を見るべきである。なぜなら芸人にとって落語から学ぶべきことは相当に多いから。笑いの基礎という基礎は全て落語に詰まっていると言っても過言ではない。実際落語をよく見る奴と全く見ない奴とでは長い目で見たときに喋りの能力の伸び率に明確な差が出る。ポピュラーミュージックの世界におけるブルースの存在のように、落語は現代のお笑いの父とも言える存在なのである。なので芸人は落語に対して常にリスペクトを忘れてはいけないし、ネタは面白いが根暗で口下手な子が多い若い世代の芸人ももっと落語を見てお笑いを学ぶ必要があると思う。特に評価の高い人の芸を生で見ること。
落語も見慣れてしまえばそこらの現代のネタよりも楽しめたりする。何より日本画と同じく風情、風流を感じれるのがいい。
続いて純邦楽。
正直そこまで深く聴いているわけではないのであまり語れることはないが、元々ギターのあの弦をはじく瞬間の独特の気持ちよさが好きで、同じ弦楽器なら音色は違えど似た心地良さを味わえるのではないかと思い、三味線や箏(そう、琴のようなもの)の一流奏者のCDを買ったのが始まり。
そしてその期待は的中。高橋竹山や宮城道雄あたりの演奏から感じ取れる心地良さは世界的な一流ギタリストのそれと共通する。違うのはやはり日本の風情を感じ取れるところ。
こういったところからの影響をポピュラーミュージック界で昇華できている人はやはり尊敬に値する。
ちなみに演歌も多少嗜みます。
その他身近すぎて意外と忘れがちなところで言うと和食もある。
ここまで述べてきた「外国文化は派手で日本文化は地味」という話は、人間にとって最も身近なエンターテインメントとも言える食文化に例えるのがおそらく一番わかりやすい。
つまり味が濃くがっつりとしたものが多い洋食と、薄味だが体のことを考えられたおもいやりの精神のある和食。
若いうちは洋食だろう。しかし大人になり精神的にも成熟していくと和食の美味さが体に沁みる。僕に至ってはもはやとろろと納豆と豆腐さえあれば生きていける体になってしまった(ただの偏食)。
見た目でいってもどかんと皿を埋め尽くす洋食と違い和食には皿の上にさえ「間」があり、それ自体が一枚の絵画のように粋な風流を感じさせてくれる。
つまり「食」も「芸」も形は違えど根底に流れる精神はつながっているということだ。
というわけで自分が嗜む日本文化は大きくこんなところである。
ところで僕のnoteはテーマを「サンリオ」に絞っている。
ここまでキティちゃんのキの字でも出てきただろうか。
否。
つまりどういうことか。
コンセプト倒れである。
いや、さすがにそれは気持ち悪いので何とか日本文化とサンリオを繋げて書いてみようと思ったところ、考えてみればそれは容易なことであった。
というわけで最後に僕の好きな日本文化、それはサンリオである。
現代日本が生んだ“KAWAII”文化の最高峰。
伝統文化というところまではいっていないが、日本のカワイイの表現に関しては間違いなく独自のものがある。
まず目に優しい柔らかなパステルカラー。これは日本画の淡い色彩と共通する。外国のカワイイキャラクターは原色をメインで使っているものが多いので、やはり根底にある日本人としての心がそうさせているのだと思う。
そしてサンリオの理念の一つでもある『かわいい、なかよく、おもいやり』。この『おもいやり』の心こそまさに日本文化なのである。
事実サンリオの看板キャラクターであるキティちゃんはまさに『おもいやり』の塊。全ての命となかよくする努力を怠らず、全ての命に対して等しく愛を与えてくれる。
おもいやりの心を持つ日本人が真の愛を持つ理想的な存在として思い描いたかわいいキャラクター。まさに日本人だからこそ生み出すことができたのがキティちゃんという存在なのだと思う。
それに『おもいやり』の精神はキャラクターのみが持っているわけではない。
ピューロランドのスタッフさんなどは本当に優しい人ばかりだし、少し前に芸能サンリオ部としてピューロランドでイベントをやらせていただいたが、直接お客さんと触れ合うことのないであろうオフィスでの事務作業をされている方までもが気さくで優しい方だった。
館長の小巻さんの改革が功を奏したところもあるだろうが、今のサンリオは人もキャラクターも本当の意味で『おもいやり』のある世界になっているのだと思う。
「風情」「風流」「間」「余白」「粋」「おもいやり」。これらは全て“引き”の美学のもとに存在するもので、一見地味に見える。
しかし本当に心の底から深い感動を与えてくれるものとはこういうものだと思う。そしてこれらは全て日本文化の中にこそある。
外国文化も素晴らしいが、日本人が日本人としてのアイデンティティを確立するためには、今一度自国の文化の素晴らしさに気づく必要があると思うのである。
物理的に消されるのもつらいが、心の中から日本文化が消えてしまうのもつらいことだ。