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「奴ら」「連中」と言う発信者

おや?と引っかかるとき。

それは、誰かが人のことを話す時、「奴ら」「連中」という言葉を耳にするときです。


例えば、上司や、テレビの中のコメンテーター、ご意見番のような方々が、ある人の行動には配慮が欠ける等と、正しいことを言っています。

でも、その人達のことを「ああいう奴ら」とか「こんな連中はどうせ」と話しています。

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それを聞いて、どう思いますか。

「そうだそうだ!その通り!あんな奴らは、けしからん!」と?


「奴ら」「連中」「あいつら」等という、相手を尊重していないように聞こえてしまう言葉を使うことで、周囲の人たちの中には、このように感じている人がいます。

この人の中には、「尊重する相手と、尊重しない相手がいるのだな」と。

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「そんなの当然だよ」「ダメな奴を認めるわけないよ」等という答えが返ってくると、人々は、それ以上話すことを控えたくなるのです。

相手が何をするか、自分の許容範囲内で行動するか、常識的な行動を取るか取らないか、によって、自分が相手を受入れるかどうか、相手を人として尊重するかどうかが変わるということ。

言葉選びが変わり、態度が変わるということ。

そして、それを当然だと言うこと。

そこから明るい未来は生まれないと、感じてしまいます。


人を条件付きでしか尊重しない。

「良い奴なら認める」「能力あるなら認める」そう考える上司のもとで、チャレンジを続け、イキイキ働けるのでしょうか。

人の成長、気づきには、それぞれのペースがあります。

成長、気づきがないように見える人にも、事情があり、ペースがあります。

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「人の行動に感じた違和感や改善が必要な点を指摘することは、より良い未来を創るためである」という本来の目的からズレ、批判すること、賛同するであろう世間に代わって代弁すること、そちらに視点がズレてしまうと、「奴ら」「連中」と言いながら、人の行動を批判することになってしまうのかもしれません。

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そして、更に、そのような人の言動が公共の電波やネットで拡散されているということ。

視聴者=日本を創り上げているひとりひとり、または、これから日本を創る子供たちが、テレビやネットで見る発信者から何を感じ、何に気付くことが、より良い未来の創造に繋がるのでしょうか。

それを思うとき、影響力を持つ人々が、「奴ら」と他者批判を繰り返すことが、果たしてベストなのでしょうか。


それぞれの正義感が、正しく活かされていないと感じます。


正義感や責任感が正しく活かされていない時、原因は明らかです。

見据える視点、ビジョンが低めなのです。

自分ごとの範囲を、広げ切れていないのです。

行動を起こす・言動を決める基準が、自分目線なのだと思います。


グローバル化対応教育を内製化する時、社内の指導者教育を行います。

その際、丁寧に気を遣うようにお伝えすることの一つが、組織のビジョン・個人のビジョン、対話指導における「承認」「言葉選び」等です。

影響力を持ってほしい人、発信の機会を与えられてほしい人は、どこまでも「相手目線」「より良い未来・社会を追究する目線」で、自らの言動を安定して判断できる人です。

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