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短歌用じゃなかった人生

もっと早く、例えば10代の、今よりも恐ろしいほどに多感だった時期に短歌に出会っていたら、もっとたくさんのことを30代の今日まで持ってこられたのかもしれない。
ノートや何かに残してこられたのかもしれない。

若いうちから作歌をはじめた歌人たちの歌集を読みながらそう思った。
あまりにも多くの大切なことを、ぼろぼろとこぼしながら今日まで来たように感じてしまったのだ。
僕はずっと小説を書いていた。
それこそ10代になる前から書いていた。
小説は、今生きている現実から離れていくところに魅力を感じていた。
ファンタジーを書いていたわけではないけれど、地上から10センチほど浮いたような現実との距離感が心地よかった。
小説には何度も救われた。
人のを読むことで、また、自分で書くことで。
小説はたしかに僕のアイデンティティだった。
これから先も小説を書く機会があるだろう。
でも、短歌は過去に戻って書けるわけではない。

けれど、ひとつ、短歌を作るときに胸に置いている言葉がある。
生きてきたその瞬間ごとに短歌を作れなかった自分の救いとなった、木下龍也さんの言葉。
「今この瞬間を書く必要はない。あなたが書くべきはあなたが見ているその月ではなく、あなたがいつか見たあの月だ。」(『天才による凡人のための短歌教室』ナナロク社)
いつか見たあの月。
忘れちゃってる部分があるからこそ、そこに詩が生まれ、歌になるのだって。
こぼしてきてしまったことを、過去に目を凝らし、手をひたし、何度でも掬い上げる行為が許されている。
このことひとつを拠り所に、僕は一生、短歌をやっていなかった時代へと帰り続けるのだろう。
短歌用じゃなかった人生を、短歌でもう一度生き直すだろう。

31音。
学校の授業や本の中、広告、至る所で出会ってきたくせにマジでノーマークだったこの短い定型詩に、なぜ今はまったのだろう。
どうしてこんなに飲み込まれたのだろう。

もしかしたら、過去を生き直す方法を探していたからかもしれない。
放っておけばどんどん忘れていくし、今この瞬間だってぼろぼろと失われていく。
過ぎていくものを、どれだけ未来へ運べるか、その方法はないかと、近頃ずっと模索していたからかもしれない。
もしそうであれば、今が大切だから、今が幸せだからこそ、そう思えたのだろう。
未来へ持っていきたい「今」が、ただ川の流れのように、海という大きすぎる存在の中へ混ざってしまうのは惜しい。
でもそれは仕方のないことだから、せめて海の潜り方を、魚の捕まえ方を覚えて、命の糧にしていきたいんだと思う。

いろんな人の歌を読んで、そのどれもを素敵だと思った。
僕も作りたい、作れるようになりたい。
小説で芽が出なかったのだから、文学のセンスはない方だと言える。
それでも続けたしつこさと、生きてきた、短歌用じゃない33年分の人生がある。
そしてこの先の人生が短歌用かというと、そうでもない気がする。
短歌というのは手段だから。
短歌の先にあるものに、短歌が生むもののために、人生はある気がする。
例えば、生きるため、とか。
これまでの33年間も生きる用。
これからの時間も、生きる用。
ただ時間でしかないものを、短歌によって生きる力に変えていく。
それは自分用かもしれないし、誰かのためになるものかもしれない。
誰かのためになったら、万歳だ。
人生を燃料に短歌を作り、短歌を栄養に人生を紡ぐ。
このサイクルをどれだけ回していけるのか。
やってみよう、回らなくなるまで。
理想は、寿命がくるまで。

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