短歌を作るのを手伝って欲しい
近頃はあまり夜にパソコンを開かなくなった。
仕事が終わらなくて職場でパソコンを前に呆然としていることはよくあるけれど、寝る前に自分の家でノートパソコンを開くことは減っていた。
そのせいか、ごくたまに夜に自分のパソコンを開くといろんなことを思い出す。
学生時代のレポート、TSUTAYAで借りて観た映画、賞に落ちた小説、あまり続かなかったブログ、片っ端から漁った好きな写真家のサイト。
これらはたぶん、何者かになりたかった日々のことだ。
何者かになりたかった日々は、夜のノートパソコンとともにあった。
初めて自分のパソコンを手にしたのは大学生になったとき。進学ですでに相当のお金がかかったろうに、入学祝いに親が買ってくれた。
小説を書いていた僕は、それで原稿用紙を卒業した。
映画を観たいからと、ノートパソコンのくせに画面の大きいものを選んだ。持ち運んだことは一度もない。ずっと部屋の机の上にいて、大学を卒業したあとに小さな編集プロダクションで働き始めた頃、不意に壊れてしまった。書きかけの原稿をすべて持って行ってしまった。
ある時、妻と出かけている最中に匂いの話になった。妻はけっこう匂いと記憶が強く結びつく質だ。良いことも嫌なことも、匂いをきっかけに思い出すことがよくあるらしい。
僕は匂いと記憶がまったく結びついていない。特定の記憶が呼び起こされることはほとんどない。きっと昔から、ずうっと鼻が詰まっていたのだ。いやな臭いはかがなくて済んだかもしれないけれど、いい匂いも、たとえばスパイスの効いたカレーとか、とにかく焼けた肉とか、人の何分の一かしか感じてこなかったのだとしたらショックだ。
だから鼻と比べるとパソコンはもう少し僕にいろんなものを与え、残してきた。
書きたい、作りたい、調べたい、観たい、会話したい、知りたい、そうしたさまざまな情熱をぶつけては形にしてくれた。データだけれど、データでしかないのだけれど、未完成のものもたくさんあるのだけれど。
今、お酒をやめかけている。
お酒なんかこっちから振ってやろうと思ったのに先にお酒に棄てられた。
ちゃんと説明すると、お酒を飲むとすぐに頭痛がするようになってしまって、飲むのが怖くなった。
本当に十数年くらいお酒を飲まなかった日なんてないんじゃないかと思うくらい、お酒が好きだったのに。仕事の帰りは毎日、親切な飲み屋で常連さんとわいわいしていたのに。
夜に時間ができてしまった。
だから夜にパソコンを開く機会が増えそうだ。それでいろんなことを思い出して、それで、こう思った。
またあの日々が始まるのかな、と。
何者かになりたかった日々のような、一生懸命な日々が。
今使っているパソコンは、8年選手。だいぶ反応が遅くて、ブラウザを開くにもなかなか立ち上げずにたらたらしている。諦めてwi-fiももう繋いでおらず、何かを書くだけに用途を絞った。コンパクトで白くて、安価だったからキーが安っぽくておもちゃみたいでかわいい。
まだまだ壊れないでほしい。
まだまだ一緒に、短歌を作るのを手伝ってほしい。
これからいくつもの夜をともにゆこう。
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