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スイスで介護ヘルパー!その14「鬼ババア!?いや、そこまでは!ミューラーさん(第五話)」#入居者さんの思い出

 (第四話からの続き)


スイスドイツ語圏の一匹ラテン狼


 ミューラーさんはやはりラテン系であり、ほかの入居者さんとは雰囲気が異なっていた。例えば、基本的によくしゃべる。食事が大事で、メニューを慎重に選ぶ。身なりに相当気を遣う、などなど。
 そして、仲の良い入居者仲間は一人もいなかった。常にお部屋で孤食していて、食堂で食べたことはただの一度もない。

 入居者さんができるだけ他者と触れ合い、部屋の外の空気を吸い、できるだけ歩いて、メリハリのある生活できるよう、私たちは食堂へ来ることを常に奨励している。実際問題として、食器の上げ下げや部屋を見回るのに時間も手間もかかるし、塩が足りないだの、ヨーグルトが食べたいだの、各種リクエストに対応するには食堂に来てもらうのがベストなのだ。

 なのにミューラーさんは基本的にひとりを好み、いくら言われても頑なに部屋食を守り続けた。一日中部屋にこもって、ひたすらテレビばかり見ていたのは、話し相手がいなかったからだろう。
 

お散歩中の別の顔


 ただし時とともにだいぶ慣れてきて顔なじみも増え、部屋から出る時間は長くなっていった。というのは、レクリエーションに参加するようになったのだ。座ったままの体操や簡単なゲームなどの合間に、ほかの入居者さんとも言葉を交わすようになった。

 さらに、毎日午後には散歩と称して、歩行器を使って付き添いと共に廊下を歩くようになった。
 そう、ミューラーさんはゆっくりなら、まだ歩くことができた。散歩の途中でレク仲間と会うと「グリュエツィ(こんにちは)!」と挨拶するようになった。

 散歩はほんの20分程度だが、何度か休憩を入れる。廊下に置いてある椅子に2人で腰を下ろして、その間は話をする。そこで何度か私も、ミューラーさんと個人的なおしゃべりをする機会を得た。

 そんなときのミューラーさんは、ごく普通の気のいいおばあさんなのだった。私にいつからスイスにいるのか、子供はいるかなど聞いてきた。彼女自身も、家族の話をしてくれた。いつも来る娘さんのほかにあと一人いたけど早くに亡くなったこと、お孫さんは今2人いて、とても頭がよいことなど。

 そこで私は、今がチャンスだと思って、聞いてみた「お顔にシワひとつないですけど、何か特別なケアをされてたんですか?」。ミューラーさんは得意そうに、ずっと愛用していたクリームの名前をおっしゃった。それはスイスブランドの超高級クリームで、ミューラーさんによれば、そのおかげでシワがないとのことだった。今使っている油脂たっぷりのクリームは薬用だが、かつてはそれよりずっと大金をコスメにつぎ込んでいたらしい。

 私も調子に乗ってきて、あのミューラーさんに対して心を開いて話しちゃったりした「フランス語はちょっとかじったことあるんですけど、難しくて挫折したんですよ~」。すると彼女は、じゃあ私が教えてあげると言って、まずは数字をアン、ドゥ、トロワ・・・と指を折って言い出した。私は必死でリピートし、何度も発音を直された。
 そんなときのミューラーさんは、実に嬉しそうだった。私の仲間になってくれるの、よし、じゃあいらっしゃい、とでも言いたげな。

 あのミューラーさんと2人でベランダに座って、そんな時間を過ごしたこともあったのだ。部屋ではまず笑わないのに、散歩中は笑顔さえ見せていた。今考えると、不思議な気がする。
 

エリーザに負けた?


 散歩中のミューラーさんが普通に優しいというのは、もちろんほかの同僚に対してもそうだった。ある時などエリーザが付き添って散歩している途中に、ミューラーさんが「そうでしょう、エリーザ?」と言うのを聞いた。

 私の名前は「イクヨ」だが、この短くて特徴的で、日本人は一度聞いたら忘れないこの「イクヨ」という名前が、スイス人には難しいのだそうだ。同僚たちはいつか覚えてくれるが、入居者さんたちの中で覚えられた人はいない。何度も聞かれたのに(私はここで唯一の日本人なので、名前ではなく日本人/東洋人として認識されているらしい。たまにタイ人の同僚と混同される)。

 だから別にいいのだが。ミューラーさんは、エリーザの名前は覚えたのだ、しかもあんな風に呼びかけたりしている、と私はそのとき一瞬、嫉妬に近いものを感じたことを告白する。私たちミューラーさん担当組は、みんなそれぞれ頑張っているが、名前が覚えやすいという理由だけで(いやそれだけではなかったかもしれない)、エリーザはそんな風に呼びかけてもらえるんだなあ、と思い知った。
 私だって、あんなに心を砕いているのに。(第六話へ続く)

 おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。
 

神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。イタリア語を学んだ後、日本語教師、ライター、介護ヘルパー。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在スイスのバーゼル近郊に長女と2人暮らし。