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スイスで介護ヘルパー!その26「フィンランド人のグラーフさん・第一話」#入居者さんの思い出


北国からやってきた長寿おばあちゃん


 ある日のミーティング。看護士のエマが、新しい入居者さんについて得た情報をみんなに共有していた。

 グラーフさんは、101歳。ご主人の苗字を名乗ってはいるが、フィンランド人であること。語学が堪能で、7か国語が話せること。話が面白くて、感じのいいおばあさんであること。転倒して足を怪我し入院していたが、退院後そのまま入居してきたこと...。
 
 グラーフさんは、痩せ型、グレイの髪は短く、お顔は白く、わりに細い目をしている。そして、毎日スカートをはいていた(女性でも、スカート派は圧倒的に少ない。高齢というより、スイスだからだと思う)。

 第一印象を、私は覚えていない。一気に新しい環境になり、何人ものスタッフが入れ代わり立ち代わり部屋に入ってくるのが、グラーフさんは慣れなかったらしい。入居当初のグラーフさんと、話が盛り上がったことはなかったし、特にこれといった思い出もない。

 ただひとつ覚えているのは、ある日。車椅子だと思っていたグラーフさんが、いきなり廊下で歩行器を押して歩いているのに出くわして、驚いた。足が回復すると、グラーフさんは待ってましたとばかりに立ち上がり、部屋では歩行器なしで動き回っていたのだった。
 

グラーフさんの日課

 北欧人は長生きと聞いていたが、なるほどと思わせる方だった。眼鏡をかけ、チューリヒ新聞を毎日なめるように読む。バーゼル新聞でなく、チューリヒ新聞というのがポイントである。

 バーゼル人は決して読まないチューリヒ新聞は、特に経済記事に特化しているし、文章スタイルも少々固い。入居者さんの中でも元教授など、インテリの方が読む傾向にある。
 教授どころか、ずっと専業主婦だったグラーフさんは、しかし、毎日商売がかって愛読していた。

 朝食は、いつもお部屋でとっていたグラーフさん。朝食後、しばらくたっても新聞が部屋に届かないとなると、歩行器を押してわざわざ私たちのオフィスまで歩いてきて催促する。
 わざわざというのは、グラーフさんは廊下のいちばん奥に住んでいたからである。我々からすれば普通の廊下だが、入居者のみなさんにとっては長い道のり。廊下を完走、じゃなくて完歩できる方は少ない。やればできる人はいるのだが、皆やろうと思わないのだ。まだまだ歩ける人まで、すぐにナースコールを押して呼び出し、私たちに頼んでいる。

 甘えていますね。でも、はいはいとやってあげる私たちも悪い。特に私など、「おじいちゃんおばあちゃん、今までどうもお疲れさま、これからはどうぞ楽にしてくださいね~」なんて思っている部分がある。これが良くないと、自分でもわかっている。歩けるうちはできるだけ歩いて、体を動かしてもらった方がよいのだ。頭ではわかっているのだが、嫌われる勇気のない私は、ついついサービスしてしまう・・・ これは、私の今後の課題だろう。

 そんなわけで、はるばる自分の足で歩いてくるという、稀有の存在であるグラーフさん。私たちのオフィスにたどり着くと、中を覗き込んで言う「あのねえ、新聞はまだかしら?今朝の新聞が、まだ届いていないんだけど?」。
 そうやって、たびたび新聞を問い合わせに来るグラーフさんは、やがて面倒なタイプに分類されていった。ほら、またグラーフさんが来た。お部屋でもうちょっと、おとなしく待ってりゃいいのに! 若い子たちの、そんな声が聞こえてきた。ナースコールなら無視すればいいが、現場に足を運んでこられると対応せざるを得なくなるからだ。

グラーフさんの立ち位置


 または、別の場面。
 毎日午後になると、入居者のみなさんは共有スペースに集い、お茶を飲んだりゲームをしたりテレビを見たりする。当初はグラーフさんも、誘われて共有スペースに来ていた。

 しかし他の入居者さんたちと、話がはずんでいない。標準ドイツ語しか話さないと、拒否反応とまではいかないが、若干反応するスイス人がいる。標準語というのは、彼らにとって外国語なのだ(私たち外国人スタッフに対しては、そういうものと心得ていて、問題なく標準語で話してくれる人が多い。ただし重度認知症の方を除く)。
 しかもグラーフさんは強いアクセントがあり、流暢でないし、声も非常に大きい。さらに話の内容が、いや、それ以前に「ノリ」が、ほかの方々とはどうも違う。
 よって、その場では完全に浮いていた。ほどなくして、共有スペースには来なくなった。その手前の、食堂にたったひとりでポツンと座り、お茶を飲み、ケーキを食べるようになったのである。もちろん、持ってきた新聞を読みながら。
 
 さらに昼食と夕食も、何度か食堂に来てほかの入居者さんたちと一緒に食べてみたが、居心地が悪く、断念。3度の食事を部屋でとることになった。
 
 そんな姿を見た私が深く心を動かされ、やがてグラーフさんに急接近していったことは言うまでもない。(第二話へ続く)

 おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。

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平川いく世
神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在はスイス・バーゼル近郊に住む。