スイスで介護ヘルパー!その3「ジョージと呼んでいたシュミットさん・第一話」#入居者さんの思い出
今から5年前、まだ入社して間もない頃のこと。入居者さんのデータを見ていて、シュミットさんが私と同じ日に生まれたと知った。変わったおばあちゃんだなあとは思っていたが、まさか同じ誕生日だったとは。以来シュミットさんに対し、大きな親しみを抱いた。
かなり特異なシュミットさんの言動
非常によく笑うのだが、ふだんはなぜか愁いをふくんだ悲しげな目をしていたシュミットさん。今思い出してみても、丸顔にボブカットの彼女が、退屈そうに頬づえをついていた姿が浮かんでくる。
シュミットさんは脳梗塞を患ってから半身不随になり、車椅子に乗っていた。動かない方の左手は、いつも三角巾じゃなくてピンクのマフラーで固定していた。食事や歯みがきはできたものの、移動や排せつは一人でできず、常に介助が必要。かなり豊満なお体を動かすにはリフトが必要だった。それでも頭の方はしっかりしていて、記憶障害や認知障害はなかったはずなのだが。
言動が、ほかの入居者さんたちとはかなり違っていた。
たとえばシュミットさんは、ゲップをした。周囲に人がいても、遠慮なく派手な音をたてた。ちなみにここスイスでは、公の場でゲップをすることはかなりお行儀の悪いことである。ましてや大の大人が、しかも女性が平気でゲップすることは、まずありえない。
なので、初めて聞いた時は心底驚いた。おお。年をとるとは、こういうことなのか。当時はまだ経験の浅かった私にとって、かなりのショックだった。ゲップがそれほどタブー視されていない日本から来た私も、欧州で暮らして既に20年あまり。ゲップは極力しないよう気をつけているし、うっかり出てしまった場合は、すぐに謝る。それがエチケットである。
ところがシュミットさんは、あろうことか、笑うのだ。ゲ~と派手にゲップをした後で、人々の反応を見て、キャハハと笑う。思わず周囲を見渡すと、ほかの同僚たちは「そういうことは、いけません!」と、ぴしっと叱っている。「もう、いい加減にしてください!」と感情的になる人もいた。
これは文法的に三人称で言っており、一応敬語ということになるから、ここではですます調で書いているが、口調はまるで子供を叱る母親なのだ。
新米だった私は、さらに驚いた。ここスイスに、年長者を敬う習慣はないのだろうか。やがてわかったのは、職員が入居者さんとまるで対等であるという事実だ。敬語を使っているし、基本的にはお世話してさしあげているのだが、時には叱る、指示する(今回は割愛するが、感情むき出しで正論をぶつけ、言い負かすことさえある)。
おそらくシュミットさんは、みんなが嫌がるのが面白くて、わざと派手にやっていたのだろう。お年寄りどころかまるで子供である。が、それにこちらもいちいち反応していては、永遠にやめないだろうと思う。
ただ中には、くしゃみに対する決まり文句「ゲスントハイト(お大事に)!」で済ませ、大目に見る同僚もいる。私も、特にコメントしないことにした。くすっと笑いだけは抑えられないのだが、それ以上の反応はしない。
笑っていたということは、私も面白がっていたということで、シュミットさんの思うつぼなのだが、とにかく腹は立たない。私がシュミットさんに寛大になれたのは、日本人の特権だったと思っている。
力がいるリフトの操作
そのおかげで私は、シュミットさんとお近づきになれたと思う。時がたち、私もリフトの操作に慣れてくると、よくシュミットさんの担当を任されるようになった。
彼女は体重も重いし立てないから、リフトで移動するよう指示されていた。が、実は立てたのである。手を添えてもらえば、トイレから立ち上がることもできた。車椅子から立ち上がり、体の向きを変えてもらえば、ベッドに腰を下ろすこともできた。力のあるベテラン職員は、内緒ねと言って(職員によって対応が違うのは良くないので)さっと移動を済ませていた。私はとてもとてもそんな勇気はなく、ふくよかなシュミットさんと共倒れになることを恐れて、毎回忠実にリフトで移動させていた。
リフトには、立ちリフトと寝たままリフトの2種類がある。手伝ってもらえれば何とか立ち上がれる、という人には、脇の下から上半身をベルトで固定し持ち上げ、立った状態で移動させる立ちリフトが用いられる(立てない人はイェガーさんのような寝たままリフトを使う)。
こうして立った入居者を、例えばバスルームから部屋へ、車輪によって楽に移動ができるというものだが、いやいやそれでも体重の重い方となると、勢いがつくまではかなりの力を要する。何より鉄製のリフトそのものが、百キロ以上する。それにトイレからベッドへ行く動線は、直線でなくいったん曲がるので、その方向転換など力の加減が難しい。リフトの足が壁にぶつかるなんてしょっちゅうだ。入居者さんのひじを壁にぶつけないよう、周囲をよく見て、慎重に全力を出して移動させる、ということになる。
スイスのかけ声「ホップラ!」
ということは、どうしてもかけ声が必要だということだ。はじめ私は「はっ!」とか「ふんっ!」とか声を出してふんばっていたが、やがてスイスには「ホップラ!」という、なんだかバカにされたようなかけ声があると知った。
それで「ホップラ!」「ホップラ!」と連発していたところ、いつの
まにやらシュミットさんは「ホップラ、ジョージ!」と合いの手を入れるようになったのだ。
この「ホップラ、ジョージ!」というのは、実はほかでも聞いたことがあり、何だろうとは思っていた。そのうち、シュミットさんは私を見ると「グーテンモルゲン、ジョージ!」と挨拶するようになった。私は女なのになあと思いながらも面倒くさいので「ハロー、ジョージ!」と答えているうちに、私たちの間で、お互いをジョージと呼び合う(二人とも女性なのに)ことが定着してしまった。
ほかの同僚も面白がって真似する人が現れたが、シュミットさんがジョージと呼ぶのは、私に対してだけ。私はそれほどホップラを連発していたのだろう。
今、ふと思いついて検索してみた。なんと「ホップラ、ジョージ」というのは、1949年のヒット曲だったのである!
ああ、もっと前に調べて、一緒に歌ってあげたら良かった!(第二話へ続く)
おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。
神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。イタリア語を学んだ後、日本語教師、ライター、介護ヘルパー。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在スイスのバーゼル近郊に長女と2人暮らし。