見出し画像

スイスで介護ヘルパー!その11「鬼ババア!?いや、そこまでは!ミューラーさん(第二話)」#入居者さんの思い出

【読者のみなさまへ】この第二話は、ミューラーさんのお世話がどれだけ面倒かを延々とつづったものです。介護に興味のない方には退屈かもしれませんので、ここは飛ばして第三話をお読みください。
 
(第一話からの続き)



朝のお世話(ミューラーさんの場合)


 入居者さんの多くがバスルームに服をかけておくのに、ミューラーさんは部屋の椅子の上に(Tシャツは背もたれへ、ズボンはひじ掛けへ)かけておくと決まっていた。朝はトイレに座らせたら、すぐに服を取りに行く。ほかの入居者さんはトイレに座っている間にパジャマを脱がせてズボンを履かせるのに、ミューラーさんはネグリジェを脱がせたら裸のまま、上半身をまず洗うのが鉄則だった。
 
 ミューラーさんはデリケートなお肌の持ち主。高齢者の方はたいていそうだが、非常に乾燥している。なのに全身を毎朝毎晩ぬれタオルで念入りにゴシゴシ洗って、肌のバリアを傷つけていた。それをいくら指摘しても、考えを変えない。

 毎朝トイレから立ち上がると、ほかの入居者さんにはたいてい私たちが性器を拭いてさしあげる。が、私たちの洗い方が気に入らないミューラーさんは、いつのまにか自分で拭くようになった。私がしぼったタオルを渡すと、必ず「これじゃぬるい。もっと熱く!」とおっしゃる。かなりの高温で濡らしているのに、毎回こうだ。お肌を洗うには、そんなに熱くない方が良いのになあと思いながら、それこそ火傷しそうな熱湯に近いお湯で再度ぬらすと、やっとタオルを受け取られる。
 それで、毎朝力まかせにゴシゴシこする。やがて、お股がかゆいと言い出した。当然である。かゆみ止めに保湿クリームをぬることになった。
 なのにミューラーさんは、洗い方が足りないのだと信じて、さらに力を入れてゴシゴシやり、その後は自分でクリームをぬりたくる。

 そういえば体のあちこちにも、よくひっかき傷を作っていた。寝ていて無意識に掻くようで、朝のベッドが血だらけになっていたりする。それを指摘すると、ミューラーさんは必ず「私は掻いてない!」と言い張るのだった。
 
 排泄が済むと、洗面台にお連れする。濡れタオルでミューラーさんがお顔を拭くと、背中だけは拭いてさしあげる。そして乾いたタオルで拭いて乾かす。あと残りの上半身は、ご自分でなさる。その後も、保湿クリームは必須だ。
 入居者さんみんなが愛用するボディローションがあるのだが、ミューラーさんは独自のクリームを持参して使っていた。そしてお顔には、バセリンのような油脂たっぷりのクリームを、いつも丹念にぬっていらした。
 鏡を見ながら、ほとんど動かなくなっていた指の先でクリームを一心にぬるミューラーさん。ぬり終わるといつも、ちゃんとぬれているか確認してくる。クリームがよく伸びておらずほっぺに白く残っていたりするので、それを指で伸ばしてさしあげる。

 そして服を着る。まず下着だが、非常に洒落たデザインの、黒いレースのブラが定番。それがかぶるタイプでしかもきついので、毎回緊張する。ヘアスタイルが乱れないよう、気をつけるように言われるのだ。
 特に美容院に行った翌日の木曜日は、ふんわりしたスタイルを壊さないよう厳しく言われる。服を首からかぶせる時は、前から後ろに!と毎回注意される。
 Tシャツを着せた後も、縫い目がちょっと前に寄っているなどを気にして、ちゃんとなってる?と聞いてきた。ミューラーさんのおかげで、私は縫い目が肩の中央に沿っているように整えることをほかの方にも注意するようになった。

こだわりのヘアスタイル


 さらに、髪の毛をとかしてさしあげるのだが、美容院の翌日などは難しくて困る。カールを維持するために、もっと丸く、もっとふんわりと要求されるのだ。私は自分自身の髪の毛さえまともに扱えない(ブローもしない)のに、ミューラーさんの特別なヘアスタイルなどとても再現できない。下手に手を出すと却ってくずしてしまう。何度もやってみたがどうにもご満足いただけず、別の同僚を呼んできてやってもらったことさえある。

 ようやくOKが出ると、今度はスプレーである・・・。美容院の業務用かと思われるような大きな缶のスプレーを愛用なさっていて、それを髪全体にシューっと吹き付ける。一度目に入ったと大騒ぎされたので、手でさえぎったりして非常に神経を使う。

 次は足/脚である。ほかの入居者さんは起き上がる前ベッドに寝た状態で拭くのに、ミューラーさんの場合はこのタイミングで車椅子に座ったまま、私がしゃがんだ姿勢で拭いてさしあげる(余談だが、欧米人で床にしゃがむことができない人は多い。靴を履かせる時も、足を伸ばしたまま腰からかがんでいる。いくら足を広げても、これでは腰にかなりの負担がかかる。我々アジア人が介護に向いていると思うのは、こんな時だ)。

 お次はクリーム。かかとを念入りにぬるよう、(知っているのに)毎回言われた。ほかの入居者さんは足/脚を拭いた後でクリームはぬらず、むくみ防止のストッキングを履かせてあげるのだが、ミューラーさんはむくんでいなかったため、普通の靴下でよかった。その黒い靴下がまたきつくて伸びないので、履かせるのに一苦労。指が動かなくなったミューラーさんの、縮こまった紫いろの足の指一本一本を今もはっきり憶えている。
 
 バスルームから出てお部屋に戻ると、最後の大事な儀式がある。眼鏡磨きである。

 ミューラーさんをテーブルの前の定位置に座らせたら、ベッドサイドテーブルの引き出しから眼鏡クリーナーをひとつ取り出す。その個包装を開け、眼鏡をそうっと手に取って、右レンズと左レンズを丁寧に磨く。窓の光にかざし、きれいになっていることを確認してから、ミューラーさんに手渡す。
 するとミューラーさんのほうでも必ず日光にかざして見る。「ここにくもりがある」「ここがまだ汚い」指でさして、ご指摘くださる。それで私がまた磨き直す。たいてい2度目か3度目で、「まあ、いいでしょう」とOKが出る。「もういい、私がやる」と言ってご自分でなさることもある。
 そんなとき私はいつも思う「初めからご自分でなさったらいいのに」。
 

ミューラーさんが終われば、デフォルトへ


 ミューラーさんのお世話を終えて部屋を出ると、毎回毎回ホッとして息を吐く。ああ今日もとりあえず切り抜けたという、大きな安堵感だ。
 そして私は自分をミューラーさんモードから、デフォルトに切り換える。ふだんの、楽しんで介護する自分に戻る。

 こんなことがあった。同僚に大事な電話が入ったからと呼び出しに行ったのだが、彼女はミューラーさんにシャワーをしてさしあげている途中だった。同僚は慌ててその場を去り、急きょ私がシャワーを引き継ぐことになったのだが、その際に自分をミューラーさんモードに切り換えることを忘れていた。始めて2分もしないうちに、「お湯がぬるい!」やら何やらのご叱責をいくつも喰らってしまったのである。

 心の準備なしに気軽に引き受けていた自分に気付き、慌ててミューラーさんモードに切り換えながら苦笑してしまった。(第三話に続く)


 おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。
 

神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。イタリア語を学んだ後、日本語教師、ライター、介護ヘルパー。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在スイスのバーゼル近郊に長女と2人暮らし。