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「自分の広宣流布」なんて、考えてもいいのだろうか

この本の結論を(すでに述べてきたが、改めて)述べる。
「自分の広宣流布」を定めて、夢中で実行しよう。私の言いたいことは、これに尽きる。
 広宣流布とは、エモくて、ヤバくて、かわいくて、おもろくて、かけがえのない活動だ。歓喜そのものだ。この活動をおもんなくすることは、最大の謗法である。

 日蓮大聖人は「法華経には、教えそのものよりも褒める言葉の方がたくさん書いてあるねん」(一二四二頁・筆者意訳)と仰せになっている。
 我々が朝夕に読誦している法華経には「あれが正しい、これは間違っている」ということより、「パネェ!」「ぴえん超えてぱおん」「ヤバスギルスキル」といった感嘆の言葉の方がたくさん書かれているというのだ。だから「法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる」(同)と大聖人は仰せになる。
 褒めること、テンションを上げること、歓喜することじたいが広宣流布だ。
 褒められ、テンションが上がり、歓喜で物事をとらえる状態。これがもっともクリエイティブな態度と言える。
 要するに「価値創造(創価)」とは、広宣流布で、歓喜を巻き起こすことだ。

 これが実生活の中で出来ていないとすれば、それは組織だけのせいではない。
 組織に対して「おかしいな」と思いながらも思考停止させている人、「おかしいなんて言うことがおかしい」と思って無理に我慢している人、「どうせ言っても分からないから」と諦めている人、それ以外の人、みんなの「悪しき物分かりの良さ」が積み重なって、「歓喜なき学会」をつくっている。
負っても負っても終われない義務に追われるだけの活動はオワコンだ。
 これから(というよりも、もう)学会は自分が面白くしていく時代だ。それが許される時が来た。池田先生をはじめとする諸先輩方が「自由な学会活動」の時代をつくってくれた。「自由を制限しなければならない時代」を終わらせてくれたのだ。

 先輩方の時代は「ガチガチの規則と規律を受けきる訓練」に歓喜があった。そうでないと組織そのものが、形づくられなかったからだ。
 いまは「自由にクリエイティブにやる活動」に歓喜がある。そうでないと組織そのものが、魅力を失っていくからだ。
 納得感のある活動は時代によって違うのだから当然だ。
 誤解を恐れずに言えば、規律と訓練が歓喜の世代と、自由と創造が歓喜の世代が分かりあうことは出来ない。目的とそのために果たす役割がまったく違うからだ。
 スタートが違うから、ゴールが違う。だからこそ組織が新陳代謝して、新しいフェーズに突入していく。
 私自身、規律と訓練の中で育ってきた世代だ。この意義が伝わらないのは、すごく切ない。自分がしてきたことを否定されるように感じていた時期もあった。だが考えを変えないデメリットの方が大きいので、実を取ってスタンスを柔軟にした。
 「分かり合える」と思っていると、分からない相手に対して不信感がわき、なぜ分からないのか」と傲慢な生命が出る。「そういうものだ」と、まずはお互いに思い切るしかない。
 度を超えて厳しい規律は、それが好きな(正しいことだと思う)先輩の間だけで、マネジメントしてもらうのがいい。

 規律にだって楽しさや美しさはある。それが分かる人の間で、それを享受すればいいし、それを見てカッコいいと思えば、若い世代が規律に憧れ、それに服すことはある。規律を押し付けるのではなく、規律のカッコよさを体現すればいい
 逆に、自由にもリスクや心細さはある。それを超克するためには、規律の力も必要になるだろう。それを身をもって理解した後輩は、先輩の押し付けてくる規律に理不尽を感じることはない。先輩は規律を守れない後輩に失望したり、ストレスを抱えながら無理に訓練をさせなくて済む。
 私自身、後輩が訓練の厳しさについてこられないこと、厳しさの意味を理解できずに潰れてしまうことに、大変なストレスと後悔をかかえてきた。
思考停止して「コレが伝統だから」「俺たちもやってきたから」「先生も受けた訓練だから」とにかく、やらせなければ人材は育たないと思い込む必要はない。
 今は、2つの流れがまじりあうタイミングなのだと、分かればいい。相手ではなく、一緒に過ごしている「時」を理解すればいいのだ。
 
 とはいえ、そんなにスムーズにはいかないのが現状だ。
 多くの幹部は、時代が変わったことに気づいていない
 「新時代のやり方でいく」と耳ざわりのいいことを言いながら、旧時代のやり方をどうにか受け容れさせようとするだけの人もいる。
仕方がない。「どう変わるか」のイメージがないのだ。なるべく変わらないことに重心を置いて考えるから、発想に制限がかかっている。
 その人たちが気づくことを、期待する必要は無い。
 「もうこのやり方は、完全に通用しない」と思い知るまでは変わらないだろう。
 それは、それでいい。いつの時代にも旧い時代にしがみつき、その時代と心中しようとする人間はいる。それが、悪いことだとも思わない。したくないことを無理にしている人には、「しなくていいかもよ」と問いはするが、本人がしたいなら、文句を言う気は無い。私も古い時代と心中したい気持ちはある。
 しかし幾つもの時代を、祈りと創造性で主体的に越えてこられた池田先生を思えば、価値創造に徹するのが、創価の師弟不二なのだと思わざるをえないのだ。

 大切なのはあなたが、自分の歓喜を妨げる鉄鎖を断ち切ることだ。もっとリアルに言えば、鉄鎖など無くなっていると気づくことだ。
 この本に身銭を切って読んでいるあなたはもう、気づいている。知っている。
 学会提供の無料サービスを享受するだけでなく、自己負担で新しい情報を取り入れ、主体的に「広宣流布を面白くしよう」という態度を示しているのだから。
 何が大切かを自分で決めるのは、己義を構えることとは違う。どんな活動で歓喜するかは、心が知っている。
 それが理解できたなら、あなたの心に鎖は無い。自分の中の池田先生と対話し、また池田先生の指導を自分の考えに基づいて紐解き、御書と照らし合わせながら進める広宣流布を、ただ楽しめばいい。

 これから怖いことを言う。大切なことだから、怖いけど、言う。
「学会員が、学会から独立する時が来た」
 おお、自分で書いていて怖い。おそろしい。しかし必要なことだ。学会員が池田先生の弟子として、組織と対等の自分を確立する段階に入った。
 学会を辞めろとか、見限れというのではない。むしろ逆だ。
 もっと学会を主体的に自分たちで運営しようと言っている。
 学会員として組織に従うだけのスタンスを卒業し、「広宣流布員(地涌の菩薩)」として創価学会に参加しようという提案だ。幹部に依存せず、本部に丸投げせずに、自分の預かった組織を、自分で能動的に運営しようということだ。
 自分および自分の組織が、世の中にどれくらいの歓喜をもたらせるのかを、当事者としてクリエイトしようと提案している。私は怖いことを言ったが、新しいことは言っていない。
 元来、学会組織は、このような設計思想をはらんでいたはずだ。学会は小さなユニットの集合体だ。しかしその構造の強みは現状、連絡をトップダウンで回すことくらいにしか活かされていない。判断が、トップダウンでしかできないからだ。
 創価班などでは「率先垂範」を旨とし、自分から幹部に連係をとって主体的に活動するように指導される。「自分から連絡してこい」など、一般のメンバーには言えないことだ。自分の意思で訓練を受けると決めた人材グループにだから言える指導だが、実際のところ創価班員でも自分から幹部へ連絡をするのは、ほんの一部のメンバーだ。
 「本来、こうあるべき姿」が、上から強制しなければ、実現できない。いま学会が行き詰まっているのは、ここだ。
 「やれ」と言われれば、それなりにやるが、ちょっと目を離せば、やらなくなる。
 広宣流布のエンジンを自分の中に積んでいない。自分から「もっとやりたい! どうすれば、もっと出来ますか?」と聞いてくるメンバーが出てこなくなったのだ。
 信心と歓喜が、正しさと楽しさが、乖離してしまった。 

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