そこに歓喜はあるのか、心は知っている
関西創価学園時代、さんざん言われてきた。
「自分と池田先生の間には、何者も入れてはならない」
師弟は、常に一対一だという意味だ。私にこれを教えてくれた先輩も先生も、決まってこうつけくわえた。
「俺も、いつ退転して、反逆するか分からんから」
仏法は「仏と魔との戦い」と言われる。いつ誰が魔に食い破られるか分からない。そんな風に教えられてきたし、歴史を見れば実際そういう側面も見てとれる。
池田先生の言葉を、誰かに翻訳してもらって聞くだけではなく、自分の身と体験を通して、生命に沁み込ませていかねばならない。これは、大切なことであるし、自分がいつ反逆するか分からないと自戒することで、会員には自浄作用が備わる。
学会員には独特の奥ゆかしさがある。組織の運営やありように対して「自分の意見を言わない」ことだ。
どんなことも黙って受け切るのが仏道修行であって、組織にたいして意見するのは傲慢であり増上慢であるとの認識が根強い。その基準で見れば、私の書く記事も、謗法や反逆、慢心と受け取られても仕方ないと思う。
現に、批判のメッセージをたくさんもらうし、批判しなくても「まあ頑張れよ」と鼻白んだ態度の人も多い。別にかまわない・・・・・・というよりも、仕方ない。
きちんと内容を読んでの批判ではなく、「こういうコトしちゃいけない」との思い込みや、私の立場を気遣っての老婆心だ。学会員の「謙虚システム」が健康的に働き、それを言わせている。そういう健気な学会員が、私は好きだ。
私には反逆する気も、退転する気も無い。謗法とも傲慢だとも思ってない。まして組織利用などであるはずがない。会員生命を賭して、書いているのだ。除名を辞さない覚悟でやっている。
実際、こんな主張をしていると、個人的な葛藤(言い過ぎ? 同志誹謗? 反逆? 己義? 敵? など)に苛まれはする。ちょっと言葉が過ぎるが、「先細りする学会のV字回復をになう勢力を糾合する働き」がこの本にはある。
そのような気概が無ければ、一会員の分際で学会への意見を有料で一般公開するなど出来ようはずもない。
鎌倉時代に一宗を立ち上げ、国主諫業を行った日蓮大聖人を思えば、私は新しい宗教を立ち上げるわけでも、国を相手取って革命を起こしているわけでもない。自分が所属する、もはや故郷とすら呼べるコミュニティの未来に対し、建設的な提案をしているだけだ。「荒ぶる必要も無いが、堂々とやれ」と、あらためて自身に言い聞かせ、筆を進める。
そもそも何故、葛藤が生じるのか。自身に根付いた思考のクセを解き明かすために、1990年代に遡る。
私は関西創価学園に通う少年。第二次宗門問題の渦中、四月会や山友が池田先生の国会証人喚問に躍起になり、オウム真理教が先生の暗殺を企てていた頃だ。
池田先生は法華講総講頭・大講頭を罷免され、宗門につく退転者も出た。まさに誰が反逆するか分からない時だった。
当時しきりに引かれた御書が「時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事 」(一八八五頁)である。
先生と呼吸を合わせ、用心深く、わずかな疑いをも「魔」と断じて斬り捨てよとのメッセージ。ともすれば学会が解体されかねない時代に学園ライフを送った世代には、深く打ち込まれている御書である。
組織を守る大きな指針となった御書ではあるが、これが自縄自縛ぎみに、学会員の思考停止を招くことになったと私は考えている。
「己義」と「価値創造」の区別が付きにくくなったのだ。
「仏法と違うことを言っていたら、相手が法主でも、それを聞く必要は無い」との御文が「先生の指導の通りに活動をする」という意味を帯び、いつのまにか「学会の打ち出しを愚直に実行し、疑義を持ってはならない」ことに変わっていた。
学会において求められる成果は、そのほとんどが外部への拡大だ。
新聞推進、折伏、法戦・・・・・・これらをやりにくくしているのは、学会への偏見や先入観である。学会は「怖い、キモい、危ない」と思われている。思想と行動を強要されるイメージがあるからだ。
事実、会員にも外部の友人にも、思想と行動を強要する風土はあった。今も、ある。特に内側に対しては。「強い思い込み」があるからだ。
「目標は絶対に達成しなければならない」と言われれば、それを「使命」と解釈して、自分の「境涯」を変えるために、あるいは目の前に立ちはだかる「宿業」を断ち切るために、努力するマジメな会員がいる。
はじめからやる気が出なくてやらない会員もいるが、今回は置いておく。問題はやる気になった人たちが、やりにくさを感じ、やる気を失っていくことだ。
学会では目標を達成すると、少しずつ役職が上がっていく。いまは目標を達成しなくても、一所懸命に活動する「優しい」メンバーの役職が上がっていく。
しかし役職が上がっても、そのための研修や業務の引き継ぎなどはほとんど行われない(少なくとも、私が渡り歩いた組織では一度も無かった)。
役職が上がると、今まで参加対象ではなかった幹部会議への出席が義務づけられ、活動の報告を求められる。個人の活動ではない、幹部としての活動だ。
報告があることも、何をすれば良かったのかも分からない。何も報告できずにいるとカマされる。「なぜ、分からないのに聞かなかったのか」と。 「優しい」から出世してきた人間が「強く」あることを求められはじめる。
ある時代までは正しいマネジメントだったが、いまの青年はこれでは、なかなか育たない。
自己主張の強い若者であれば「やめさせてもらいます」となるが、たいてい役職が上がるのは無茶振りを弾力的に受けとめる「優しい」メンバーだ。
彼は「自分が悪かった」と思い込み、マジメに目標達成を目的に活動する。しかし、理不尽な叱責で押しつけられた目標を、どうすれば下のメンバーに頑張ってもらえるかで煩悶。
下のメンバーは「頑張ります」というが、自分事として目標を受けとめない。必死さなどなく、動きも鈍い。「シバいたろっか」という気が一瞬起こるが、シバくのもおかしな話だと、すぐに思いとどまる。
シバきたくなるのは、メンバーが動かなければ自分がシバかれるからだ。
「俺、おまえが頑張ってくれへんとシバかれるねん。だから頑張ってくれ」
言えない。とても言えない。
活動するためには、自発能動のモチベーションが必要である。自分は幹部に言われて素直に活動したのに、どうして自分の呼びかけでは、みんなが活動してくれないのかと悩む。「自分には力が無い」と打ちひしがれる。
一方、メンバーは動かないどころか、「忙しくて何もできていません」という連絡すらしてこない。これでは数字もエピソードも報告しようがない。
火付きの悪いメンバーと、必死に数字やエピソードを報告しようとする自分の間に温度差が生まれ、メンバーに会うことさえも次第にツラくなってくる。
結果、何が起こるか。自分で数字を作ることになる。適当にサバを読んで数字をでっちあげる。劇的な数字ではなく、なんとなくこれなら怒られず怪しまれず、ツッコまれもしない線で報告を出す。
当然みんながみんな、毎回こうではない。しかしこれをやっている幹部を何人も知っているし、私もやったことはある。報告をねつ造する罪悪感から統合失調症になった友人もいる。
ツラくて学会が嫌いになるくらいなら、報告のねつ造くらい気軽にやってもらいたい。「学会活動に疑問を持ってはならない」との本質を見失い空洞化した風土が、活動から歓喜を奪っている。
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