教育は能力開発なのか
教育基本法が平成18年に改定され(改正とはあえて書かない)、改定前にはなかった「能力」という言葉が使われるようになった。
改定後第二条(教育の目標)
…個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし~
改定後第五条(義務教育)
…普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ~
そんな変化と関連しているのかいないのか、
最近、『教育』と『能力開発』が混同される現象が気になっている。
その教育は、どこへ向かうのか
教育関係者(塾の先生、学校の教員等)との対話の機会があると、ずいぶん「〇〇能力」「△△する力」を育てたがっていることがある。
「教育で何がしたいのか」「何のために教育をしているのか」「理想の教育はどんなものか」という問いから始まったはずの対話の場が、「どんな能力をつけさせるか」「能力を高めるためにどんなアプローチが良いか」というような狭義の問いにすり替わる。
〇〇能力を育てることこそが教育の目的だと言わんばかりに。
(私塾を作ってしまった自分が言うと、無責任さを孕んでしまうけれど)
学校の存在価値の最たるものは、すべての子どもたちへの平等な教育を保証する機関であること。その先にあるには、メリトクラシーに侵食されない社会であり、すべての人間が、自由に、平等に、安全に生きていけることであるはずだ。
そのための学校が、能力開発機関へと軸足を移してしてしまうとしたら、とても悲しい。
あなたは、教育がやりたいんですか?能力開発がやりたいんですか?
もちろん、能力開発も重要
誤解のないように書いておくと、教育の役割の1つとして、能力開発的なものを含むことは異論がない。
コミュニケーション能力は育てられた方がいい。
メタ認知能力を育てれば学力も上がる。
集中力は21世紀のIQだ、という話も的を射ている。
ラーニングコンパス2030は、大切な指針を示してくれている。
能力開発的なアプローチは、それはそれで重要。
ただ、それは、『教育』と『能力開発』に重なる部分もあるという話。
教育の結果として子どもたちの〇〇力が向上するのも、素晴らしいことだと思う。
教育と能力開発を同一視するのは、軽薄で、暴力的だろう。
じゃあ、教育とは何なのか
教育開発と異なるならば、『教育』は何なのですか、と聞かれたりする。
勉強不足ゆえ、それにばしっと答える言葉を、まだ持っていない。
いま答えるとすれば、
「教育は、教育です」
ということになる。
(正直、この答えで十分では?とも思ってる)
賞罰教育との関わり
賞罰教育をなくしていくことは、私の教育活動のいちテーマでもある。
賞罰(=褒める叱る、ご褒美や罰則)を手段とした教育。
賞罰を使えば、生徒(子ども)を一時的・表面的にコントロールできてしまい、大人は悦びを得やすい。だからこそ、根が深い。
能力開発と賞罰教育は、相性が良いように見える。
何かができると褒められ、できないと叱られ、できるまでやらされる。
子どもたちは商品化され、均質な能力をつけられ、社会に出荷されていく。苦しい。