もういない場所で
二〇一九年、徳島市の国府町の民家で、明治ごろのニホンオオカミの頭骨が見つかった、とネットニュースになっているのを見た。これは、あのとき生首だ。あれから、どこかの誰かを守ってくれていたんだろう。立派につとめを果たしていたのだ。でも、それがなんだというのだろう。私はPCの画面を見ながら、弟が生まれた日のこと、祖母のことを思い出していた。
兄がうまれたころ祖父が死に、祖母が死んだころわたしがうまれた。あるいは、兄がうまれたから祖父が死に、祖母が死んだからわたしがうまれたのかもしれない。なにかの調整みたいに、わたしの住む場所では住民の数は一定だった。だから私はいまにいる。
弟がうまれるとなったとき、わたしは海に行って石を拾って来いと言われた。きれいな翡翠色をした石を拾っていったら、母は平手打ちをしてそれを放り投げた。思えばあれはシーグラスで、石ではなかった。おさない、かわいらしい間違いだったと今は思う。
海までは途方もない時間がかかる。電車とバスを使っても、何時間とかかった。わたしたちの家は山間にあったので、探そうと思えばすぐに石なんて見つけられた。それでも海で見つけた石でないとだめなのだ。反発させなければいけないから。そうしないと、山犬に食われてしまう。兄は祖父の身体を焼いたときに残った石を飲んだという。弟のぶんがない。父は外からやってきたここにしては珍しい婿で、母しか跡取りがいない我が家の苦肉の策だった。本来、石を持たない男なんて真っ先にやられる。でも、父はへいきだった。海生まれ漁村育ちのおかげだと父は言っていた。実際は関係がなかった。それはただの偶然だったのだ。わたしは石を飲んでいない。祖母も、母も飲まなかったという。女は山犬に食われることがないから。わたしは海に行ってなるべく丸い石を見つけてきて、母に渡した。母はためつすがめつしたのちうなずいた。あんたは外に出てな。そう言って、わたしが出たのを確認すると玄関の扉をぴしゃりとしめた。
そのすぐあと、母は弟をうんだ。弟のなく声が一瞬きこえて、不自然な形で止まった。死んだ。そう思ってわたしは家に入り、母の部屋のふすまを開けた。父と兄が、母のまたぐらに手を当てていた。しばらくすると母がいきみ、血まみれの仔犬が顔を出した。仔犬が弟の声でないて、父と兄が仔犬を母の股からひっぱりだした。とりあげて抱いた兄が仔犬にくちづけをする。仔犬はわたしがひろった石を吐き出し、再度ないた。父は母の太ももを思いっきり広げて、早くしろと兄に叫んでいる。兄は弟を抱えると、母の股に仔犬を押し込んだ。母がうめくと父はがんばれと声をかける。兄は泣いていた。仔犬の鼻先が母の股につくと、仔犬は吸い込まれるように入っていった。母が大きく呼吸をして、兄の名を呼ぶ。くちづけた。母と兄が、くちづけている。なにしてんの! わたしは言い、振り返った兄と真正面からわたしを見据える母を見て、ぞっとした。出ろ! 母が叫ぶと同時くらいにわたしは走り出していた。そして玄関を出ると腰が抜けて、そのままそこにうずくまった。母と兄の鼻が伸びて、目が左右に遠ざかっていた。あの姿はまるで……。そこに死んだはずの祖母――初めて会ったのに、わたしは彼女がわかった――が来て、わたしをしかりはじめた。お母さんのいうことも聞かないで、あんたはほんとに悪い子だね。まったくあたしがなんのために死んだんだかわからないよ。いいかい、もうあたしもじいさんもいないんだ。恵子は子を余計に作った。ごまかしきれるかわからないんだからね。いい、もうじっとしてな。そうね、それまで、あたしが一緒にいたげるから。祖母はわたしの隣に腰かける。なんで入った。あんた、恵子にはいったらあかん言われとったのに言いつけも守れなかったのかね、そういうところがだめなんだよ、あんたが生きてるのはね、あたしのおかげだけじゃないんだよ。恵子のおかげ、ひいばあちゃんのおかげ、ご先祖さまのおかげなんだよ。でも、わたしは言う。わたしはそんなこと頼んでない。弟も、別に死んでいい。平手。頬の熱。わたしはまたうずくまって、これから先の暴力から逃れようとする。けれど、祖母はもうたたいてくることはなかった。ま、いいさ。ひねくれてようが、あたしは死んでるからね。どうなろうと知ったこっちゃないよ。恵子が無事でありゃいい。あんたの弟、あれは忌み子さ、生まれるほうが筋違いなんだよ。だいたいあれほどきつく言ってあったのに、わざわざ苦労する道を選ぶやつがあるかね。あんたは恵子に似たんだね。鼻息荒く祖母は言い、わたしの頭に手を置く。さ、もう一度はいってみよう。今度は、ばれちゃいけんよ。たぶんあんたも同じになっちまうからね。祖母はぱっと頭を上げた。立ち上がって鼻を上に向けてにおいを嗅ぐようにしている。なんだか犬みたいだ。わたしはそう思った。来たよ。呆れたような言い方だった。祖母はなにを言ってるのだろう。まったく、勘のにぶい子だね。ほら、耳をすますんだ、そうすりゃあんただって聞こえるだろう。わたしは口と目を閉じる。鼻だけで息をして、わずかに首をおろす。こうするとよく聞こえるのだ。裏山の笹薮をなにかがいきおいよく動いている。風じゃない。風ならもっと一面的な音だ。すぐ近くまで来る。息遣い。間隔は短いのに決して乱れているわけじゃない。等間隔の忙しない犬の息遣いだ。ばあちゃん。祖母もうなずく。山犬さ、仔を取り返しに来たんだよ。あいつらはみんな母親で、女なんだ。でも、なんで。たしかに弟は仔犬だった。でも、わたしは自分が生まれた時の姿なんて知らないから、わたしもああやって生まれたのだと思った。わたしはいちど、弟より前に赤ん坊を見たことがあった。友達の美沙子ちゃんの家で妹が生まれたのだ。あれは、美沙子ちゃんの妹が生まれて一か月だったときだ。そのころにはもう人間の姿をしていた。でも、その前はどうかわからない。ここに来る? ばあちゃんは首を振る。わからない。一応犬除けはしてるけどね。でも、大神さまの力だってあてにはならないさ、賢見さんのとこが最後にうちにきたのはいつだい。賢見さんって、賢おじさん? 河童禿げの? 祖母は笑いながらうなずいた。なんだい、賢見のお社のところはまだてっぺん禿げなのかい。あそこも血が濃いからねえ。そうだよ、河童禿げの賢おじさんだ、いつ来た。わたしの去年の誕生日だから、十か月前かな。祖母が舌打ちをした。がりがりと土壁に爪を立てるような音がする。まずいね。唯、あんたいまから賢見さんとこ行くよ。え、でも、わたしどこか知らない。そんなのあたしが知ってるにきまってるだろ。いいから来るんだよ。そういうと祖母は歩きはじめた。わたしは足が動かなかった。祖母は振り返りもせずどんどん小さくなってゆく。母の悲鳴が聞こえた。ついで、父の、兄のうろたえながら母を呼ぶ声も。あんたが行かなきゃ、無事じゃすまないよ。気づくと祖母はわたしの横にいて、手をつないだ。祖母の手はあたたかくもつめたくもなかった。ただつかんでいる感触だけがある。それでも、こころづよかった。わたしたちは歩き出す。
祖母が向かっているさきはすぐに見当がついた。それはこの辺の子どもなら誰でも知っている。絶対にはいってはいけない場所だったから。この先にあるのは洞窟だ。この辺の子どもなら誰でも知っていた。みんな一度は行ったことがあるから。
暗い緑の光がわずかに森の床に落ちている。祖母はわたしの手を引いてずんずん進む。わたしなんかよりぜんぜんあるくのがはやい。死んでるぶん疲れを知らないのだと、あとで教えてくれた。洞窟につく。入るの? 当たり前じゃないか。なんのためにここに来たんだっていうんだい。また鼻息を荒くする。洞窟の中はくらくて、つめたく質感のある空気が漂っていた。行き止まりまで来て、祖母は立ち止った。あんた、ここよりさきは行ったことある? 首を振る。こわくて声が出せなかった。わきに片腕の白骨が落ちている。祖母がわたしの視線をたどって、それを見る。ああ、と言った。あんたもああなるかもね。祖母がちいさく嗤った。わたしは踵をかえして走り出す。弟はいいのかい。恵子は、徳治さんは、光太郎は。わたしは立ち止った。そしてゆっくり祖母のもとへ戻る。あんた、時のたびはしたことあったっけ? え? だから、時のたびだよ。え、なにそれ。ここらへんはね、時が回りやすいんだ。だから、うちは犬と人間が入れ替わっちまった。ま、いまとなってはみんなそうさ。犬と人間がおなじように歳をとらないのはそういうことさ。本来、長寿なのは犬に決まってるんだから。祖母は言うやわたしの手を取り洞窟の壁に突っこんだ。激しい光が、激しい圧があった。それは身体がゆがむと同時に元に戻り、ひどくゆっくりになると思うと瞬間が身体を通過した。
草むらのなかにわたしたちは立っていた。さ、ついた。河童禿げに会いに行こう。祖母はまたずんずん足を運ぶ。いまのなに。祖母はこたえず、あたしは鳥居の中にはいれない。あんたがひとりで行って事情を説明してくるんだ。あんたが行かなきゃ、うちのやつらはみんな死ぬからね。鳥居の前まで来ると、祖母はわたしの背中を押す。じゃあ、頼んだよ。ばあちゃん。振り返ると、祖母は見えなかった。あわてて元の場所に戻ると、祖母はそこにいた。いいから早く行ってきな、愚図だね。わたしは安心して、こんどはひとりで鳥居をくぐる。賢おじさんは社務所のわきで煙草を吸っていた。唯ちゃん、どうしたのこんなところに。お母さん、もうすぐ子どもが生まれるんでしょう。わたしは急いで説明する。要領を得なかったのか三回ほど説明させられた。一回目はまだ煙草を吸いながら聞いていた。二回目では手が止まり、三回目が終わる頃には煙草を踏みつぶしていた。あれを出さなきゃ。賢おじさんは言う。どこやったっけいや失くすはずがないそうだあそこにいやでも取れるのかああでもこの子がいる。賢おじさんは振り向くと、唯ちゃん、一緒にきてくれるかな。そうしてわたしたちは本堂の裏にある小さな祠の前に着いた。祠にはちいさな石の扉がついていて、苔むし水が滴り落ちている。ここ、開けて。おじさんは指さしながら言う。わたしは言う通りにした。扉の中に扉があって、それも開ける。仏壇みたいだった。観音開きになったそれの中には、生首が入っていた、それもいぬの。え。大神さまだよ。よし、じゃあ、大神さまを持って。わたしはいぬの生首に触れる。まだあたたかい。いや、冷える様子のないそれは生きていたのだろう。いつまでそれは生きていたのか、いまとなってはもうわからない。わたしがそれを抱え持つとおじさんはうなずいた。
鳥居を出ると祖母は変わらずそこにいて、笑っていた。賢おじさんはどんどん賢おじさんのお父さんに似ていくという。急がないと。おじさんは言い、祖母もうなずいた。そういえば、ここまでどうやってきたの。だって唯ちゃんちからここまで車でも相当かかるのに。時のたび。わたしが言うと、おじさんは笑い、なにそれと言った。とき、の、たび。私もそうして、いまにいる。
唯ちゃん、SFにハマってるの? 賢見さんになに言っても仕方ないわ、さ、行くよ。わたしは祖母の手を握ってついていく。どこ行くの? ついてきて、とわたしたちは言った。そこからはあっという間で、もううちの近くまで来ていた。賢おじさんは大神さまの力だと驚いていた。
玄関の前に、大きな犬がいる。玄関の前でなにかを食っている。父だ。父が山犬に組み伏せられ、まぐわっている。父は眠っているように見えた。すこし微笑んでいる。下半身を山犬に食われ、幸福そうな顔をしている。父の下腹部は果てたあとのようだった。父のことは以降誰も気に留めなかった。山犬に魅せられ交合した男を、母は早々に捨てた。
犬神。山犬は実際にはそう呼ばれている。賢おじさんはそれを祓うのが仕事だ。
賢おじさんはわたしを先頭に行こうと言う。大神さまが護ってくれるからむしろわたしがいちばん安全らしい。しんがりをつとめるのは祖母だ。大丈夫、大丈夫だよ。祖母が後ろから声をかける。その声に押されて歩き出した。犬神は振り返って唸り声をあげた。低くておなかにひびく声。たじろぎながらも歩き続ける。犬神がわたしの一メートル先くらいまで来たとき、生首が吠えた。それは犬神よりも太く高い、遠くまでひびくような声だった。犬神はあとじさり、わたしが歩を進めるとそのぶんだけ後ろにさがった。一歩。生首の咆哮が拡散し、犬神はしろい液を垂れ流しながら逃げた。その背中を呆然と見送った。途端に力が抜けてしゃがみこむ。お疲れ様。賢おじさんがわたしの腕から生首を取り上げる。そうして、賢おじさんは犬除けをしてくる、と蔵へ歩いて行った。
終わったんだね。わたしは祖母に声をかける。まだだよ、まったくあんたは。だって、口をとがらせてみせるが、黙殺された。恵子のところに行ってきな。ばあちゃんは? あたしはいいよ、とっくに死んだ人間だからね。そっか。そうだよ、ほら行っといで。祖母は手をひらひらと振って、厄介払いをするように顔をしかめて見せた。ばあちゃん。なんだよ、愚図な子だね。ありがとう、手伝ってくれて。虚をつかれたような顔をして、祖母は眉間にしわを寄せる。が、それもすぐにとけ破顔した。それからため息をついて、言った。あんたもね、もっと素直になりな。愚図だっていい、勘が鈍くたって。でもね、素直でなきゃいけないよ。わかったね。うん! じゃあ、いってくるね。ああ、いってらっしゃい。
弟は生まれていた。血まみれで、髪の毛は濡れて頭にべったりくっついていたけど、それでも元気だった。部屋の敷居で立ちすくんでいると、母が顔をあげた。唯、おいで。ほら、唯の弟だよ。久しく聞いていない、母の優しい声だった。わたしはそれだけで心に芯ができたような、しなやかな気持ちになった。ほら、唯みろよ。兄がわたしの肩を抱き、ガーゼを渡して、拭いてやれと言う。もうお前も姉ちゃんなんだから。弟はまだ目も開かず、静かに呼吸をしているだけだ。わたしはおそるおそる弟の顔をぬぐう。弟がすこし目をあけた気がした。
倫、誕生日おめでとう。わたしがあなたのお姉ちゃんだよ。そのせいで、私はもうここにいれない。
了
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