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写真展「樹断」

2023年3月5日〜4月1日
東京都府中 LIGHT UP LOBBYにて開催した
写真家・アーティストとしての Hira による
個人展覧会である。

樹断 とは何だったのか

樹は、地面に根を張り立っている樹木を指す。
断は、樹木が切断された状態を指す。

展示していたイントロダクション


僕がこのイントロダクションを書いた時点では、僕自身も何を写しているのか、理解が浅かった。

生きること、死ぬこと。人は自分を取巻く環境や選択を変えられる可能性があること。自己投影する中で反芻し、自分がどうありたいか。という問いかけをしていた。

「断」の綴りを「done」(終わった、完了した、済んだ)としているのは、樹は切られて死んだ。ということではない。生命活動が続く中でのdoneは、節目であり転換点である。

展示写真

この切り株たちの選択は、「それでも生きる。」

交わせる言葉が無いからこそ感じる、高純度の生きる意志。元の形に戻ろうとか、周りに劣ってしまったとか、そんな雑念のない流れの中で確かに生きている。

切り株は美しい。
(この感情は会期終了後も揺らぐことはなかった。)



ここからは、来場者と話しているうちに理解が深まった部分である。

思考する余白

この写真たちは、何を写しているか。
切り株、ヒビ、苔、シロアリが食べた跡、背景に佇む樹木や草花、朝露、湿った空気。確かに写っているものたち。これらはほとんど目に見えるものだ。

目に見えないものが写る…?(…心霊現象の類ではない。)
例えば、人工的な断面には人の気配、失う前の幹・枝・樹冠これらは見えないが、想像しうる事象として写っている。目に見えない、撮影者すら確認できていない・知り得ないという部分を鑑賞者と共有することで「思考する余白」が生まれると感じた。
きっとこうなんじゃないか。私はこう考えた。ということに対して、撮影者(出展者)が「それは違う。」と言えるはずがないのだ。なぜなら撮影者も知り得ないからである。

つまり、自由に考えて好き勝手想像することが許されているような写真になっている。

鑑賞者としては想像を巡らせることに没頭できるし、綺麗だ。美しい。と眺めることだって良いし、僕としても写真を見て考えたり楽しんでくれることは嬉しい。


演出のない写真

演出の定義は、対象を華やかに見せようとしたり、背景で飾りつけたりすることとする。僕は演出のない写真に惹かれるし、撮りたい。
もちろん演出が必要な写真や、演出によって素晴らしい仕上がりになっている写真もたくさんあると思っている。

今回の展示では結果的に、ほとんど演出のない写真たちになったと思っている。被写体とする切り株に、ただまっすぐ向かっていったと思う。そこに在るということだけを画面に収める。その素直さみたいなものが、雑念を払い、何度見ても澄んだ気持ちで眺められる一因なのだろうと思う。

これはまだ僕の中で不透明な部分もあり、これからの写真活動の中で確信づいていけたらと考えている。



解釈

写真展「樹断」で、僕が最も救われている解釈について。
「欠如、不完全、それでも美しい。」

欠けていてもいい、不完全でもいい、人も同じ。綺麗事かもしれないが、僕はこれを信じている。



印象的だった感想

写真を通していろんな人と繋がった日

最後に、会場に置いていたノートにたくさんのコメントをいただいたので、印象的だったものを一部抜粋していく。

・そこにいるような感覚になり、ずっと見ていられた。
・世界を見る新しい視点を教えてもらえた。
・表現することのエネルギーを感じた。
・切り株という存在への解像度が一気に上がった。
・コンセプト以上のことを感じられた。
・「考える」という原点に立ち返ったような気持ちになった。



ここまで読んでくださった皆様、今回の個展開催から終了までご協力いただいた皆様、会期中にご来場いただいた皆様、いいねやRTで盛り上げてくださった皆様、本当にありがとうございました💐


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