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海の向こうに広がる祖父母の記憶と私の歴史

私が生まれ育った長崎県は、海と山がすぐ近くにあり、どこへ行ってもその両方を感じることができる場所です。特に、内海である長崎の海は穏やかで、遠くには熊本県側の観覧車が見える風景がありました。その観覧車を眺めながら、私は子ども時代を過ごしました。

内海なので、太平洋や日本海のような大きな海とは異なりますが、それでも海の向こうには別の町があり、フェリーで渡ると新しい場所に出会えるという現実がそこにありました。その風景や「海を渡る」という行為に、私はどこか憧れを抱いていました。

10年ほど前、何かのセッションやカウンセリングを受けた際に、「海の向こうの観覧車」というキーワードが出てきました。その時、「あなたはこれから、海の向こうに繋がるようなお仕事をしていくかもしれませんね」と言われたのを、ふと思い出しました。

その言葉が現実になったのかもしれません。今、私は自分のいる場所で世界中の人々と繋がりながら、仕事をしています。実際に海を渡って動き回るわけではありませんが、まるで自分の足元からその「海の向こう」と繋がっているような感覚があります。

これから先、どんな形になっていくのかはまだわかりませんが、自然とその方向へ進んでいる自分を感じます。形を少しずつ変えながら、新しい風景を作っていけたらいいなと思っています。


海の向こうといえば、今年に入ってから私は、母方の祖父母がそれぞれ戦時中に過ごした土地や、その家族の歴史に強い関心を抱くようになりました。

私の祖父たちはすでに他界し、祖母たちは存命ですが、記憶がしっかりしているのは母方の祖母だけです。母方の祖父が生きている間に、もっと多くのことを聞いておけばよかったと今になって思います。特に、彼が過ごした満州の話です。

祖父の親戚にあたる「満州のおじさん」は、満州で商売を成功させ、その財を戦後に多くの地域に寄付したことで知られていました。私の地元や隣の市には、ひっそりとその名前が残っています。祖父が亡くなる数年前に話してくれたのは、祖父が中学生の頃、たった一人で船に乗り満州に渡ったというエピソード。どうやって?と疑問が尽きませんが、当時の祖父はおじさんのお店を手伝いながら現地の学校にも通っていたそうです。

さらに、戦後になって祖父のお兄さんは、娘さんと一緒にかつて満州にあったお店を訪れ、そのまま残っていたお店の姿を確認したとも聞きました。

そのお兄さんは、もうこの世にいません。特に娘さんは、母と同じような難病を患っているため、存命ですが現在の時点では私が直接話を聞くことは叶いません。

しかし、そんなに多くの寄付をしていた「満州のおじさん」の記録なら、何かインターネットで見つかるのでは?と調べてみたところ、本当に見つけることができました。写真は残念ながらありませんでしたが、店の名前と住所が分かり、その存在が確かに感じられました。

もしもその「満州のおじさん」が、自分の甥っ子の子孫が彼に興味を持ち、情報を探し出すとは思ってもみなかったでしょう。どんな人だったのだろう、どんな顔をしていたのだろう、どのようにして満州に渡り、どのような商売(屋号に〇〇洋行との記載がありました) をして成功を収めたのだろうと、想像は膨らむばかりです。

さらに調べてみると、そのおじさんは私の祖父のおじではなく、私の曽祖父のおじにあたる存在でした。それにもかかわらず、自分の甥っ子の家族まで面倒を見るなんて、一体どんな器の大きな人だったのでしょう。

こうして海の向こうに残る家族の記憶や痕跡に触れるたびに、その一つ一つが私自身に繋がっていると実感します。そして、海の向こうの風景と家族の記憶が、私の中で少しずつ形を作りつつあるのです。


私が満州について考えるとき、そこには祖母から聞く話と、資料や歴史として伝えられている事実との間に少しギャップを感じます。それでも、どちらもその人にとっての「真実」なのでしょう。

母方の祖母は、朝鮮半島の北側、現在の北朝鮮の港町で生まれ育ちました。12歳までその地で過ごし、その後、戦争が終わる直前に満州へ移り、1年ほどをそこで過ごしたそうです。

祖母から聞いた満州の記憶はぼんやりとしている部分も多いですが、先週の日曜日に思い切って祖母と話をし、いくつかのエピソードを聞き出しました。その話は音声として残し、少しずつ家族の歴史を形にしています。

祖母の話は、資料や歴史と完全に一致しない部分もありますが、それは生きた記憶そのものだと思います。特に戦争や混乱の中での経験は、人それぞれの視点や記憶の断片が織りなす複雑な物語です。

こうして家族の記憶を辿る中で、個人のストーリーがいかに歴史の一部であり、またその背後に隠された多様な真実を浮き彫りにしてくれるのかを実感しています。

この記録を続けることで、未来の家族や自分自身にとっての大切な財産になることを願っています。

私の両親はどちらも、私が生まれ育った町の出身です。そのため、遠く離れた場所に祖父母が住んでいるという感覚がなく、私のルーツはこの狭い地域の中にあるのだろうと思いながら育ちました。

しかし、大人になるにつれて、祖父母がかつて海の向こうで過ごした記憶があることを知り、視野が大きく広がった気がしました。

特に2022年頃から、先の戦争や東アジアの歴史について学び始めました。これらの歴史は、私にとって家族の歴史の一部であり、同時に日本の歴史の一部でもあるからです。祖父母の記憶や話を通じて、個人の体験がどれだけ大きな歴史の流れの中で形作られているかを知る機会となりました。

歴史を学ぶ中で感じるのは、国や地域ごとに視点や伝え方が異なることの難しさです。同じ出来事でも、語られる内容や強調されるポイントが変わり、それぞれに異なる「真実」が存在します。これは決して簡単なことではありませんが、私はなるべくフラットな視点で物事を見られるようになりたいと思っています。

家族の歴史を語るうえで、父方の祖父が経験した被爆体験を記録として残すことは、私にとって重要な課題です。しかし、私が聞いた祖父の話は、すでに記憶の中で薄れてきており、このままだとこぼれ落ちてしまいそうな感覚があります。

現在、私は従姉妹と共に「家族内での被爆体験の継承」という共同プロジェクトに取り組もうとしています。このプロジェクトでは、祖父が経験した被爆の記憶を記録に残し、家族へと伝えていくことを目指しています。しかし、戦争について学べば学ぶほど、その重みや複雑さに圧倒され、なかなか足が進まない自分がいるのも事実です。

今年は、虎に翼をきっかけに総力戦研究所のことを知り、それについてほんや資料を読んだりしたのですが、私は知らないことが多いと愕然としました。このことは長くなるので今日は割愛します。

それでも、最初のステップとして、祖父の体験を残すことに集中したいと思います。



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hiro| KOTOBASHIYA
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