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笑う人を見たら

病院の待合で、スマホを見ていた人が笑った。
BGMもない静かな待合室で。

「・・フフッ」


老若男女様々な、診察待ちをしている人たちのなか
その笑い声を聞いたのは私だけではなかったはずだ。


静かな空間には「おまえたち、なるべく音を立てないように過ごせよ」という無言の圧力が発生する。

このご時世、ちょっとした咳払いも憚られるような空間。


そんな中で聞こえてきた一瞬の笑い声で、
私は少しホッとした。

何を見て、何を読んで笑ったのだろう。
思わずもれてしまった笑い声。

病院で診察を待ちながら、
スマホを見て笑う人、笑うことができる人。
それに少しホッとできる自分。


生きていることを遊ぶ、それは笑い声にあらわれる。

「ああ、笑った」新生児の表情筋の動きがもてはやされるのは、
いつも泣いている赤ちゃんの笑いが可愛いというだけではないと思う。

笑っている=生まれてきて良かった。

そう感じている証拠だと、本来みんな知っているはずだ。


でも、
笑われている(嗤われている)と感じ、疎外、孤独を感じる人もいる。
そこに参加できない自分を再確認してしまうから。

私は公共の場で、
大きな声で話し盛り上がることや、
電話でだれかと話すことを控える、というルールの根底に

場を共有するひとたちに疎外感を味わわせない


という配慮も考えられるよなぁと思っている。


たとえ、電車やバスで大きな声で話す人がいても
笑い声が聞こえてくるような楽しそうな会話であれば、
私は良しとする派。

疎外感なんて、感じる必要ある?
だって楽しそうだしあんなに笑ってるよ、

生まれてきて良かったね。お互い。

皆さんは、どうですか?




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