教育について分かっても分かっても、『分かっていない』-学び合いとは『心』である-高橋さんのお話
『流動型学び合い』の本を書かれた、高橋さん。
僕自身のいつもの反応としては『型の書かれた本には、なんだか触れないでおこう』という、スタンスがありました。
はっきりいって、そのことは2つの意味で間違いだと気づきました。
①そもそも、そういうものたちを『食わず嫌い』している点で、教育について知っていこうとする姿勢として公平ではないと感じる間違い
②高橋さんの著書は、型はもちろんだが、その心を、伝えようとなさっているということを知らずに読んでいなかった、という間違い
教師を離れて、仕事をしていなくてもなお、教育に関わる自分としては、すごく視野が狭かったことを痛感しました。
知らないものは、受け付けられない。一歩踏んで、かじってみるっていうことを、やろうよ!って言っていながら、どこか自分が避けていました。
もちろん、時間は有限なので、かぎりはありますが、ね。
わたしはメモを取れなかった
いつもなら『うんうん、そうだよねー♪わかる分かるー!』みたいか感じで、楽しくメモをするんですが、今回はできませんでした。
というよりも、
途中からメモすることをやめざるを得なかった。
という表現が正しいです。
それは、高橋さんの話の節々から、『教師として、というより人間として、子どもにぶつかる有様そのもの』を、ダイレクトに感じたからです。
いずれメモにはしたいのですが、どうしても自分の心に刻みたくなりました。
人間としての教師
そんな風になれることが理想だとは分かっていた。もちろん技も必要である。
でも、そんな姿を突きつけられると、(比べるわけじゃなくて、ああいう風になるべき、という論でもなくて)
改めて自分の姿を、伸ばせていたのか、改めて考えさせられるのでした。
わかればわかるほど、分からないことが増えていく。そこで当たり前で、わかるほど、道が開けて、分からないことが見えてきて、
人生をかけて目の前に見えた道から、自分が選んだ道を進んだりと戻ったり、とまったりしているのだなあ。
と高橋さんの姿を受け止めながら、なんとか文字化しているいわたつなのでした。