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情熱はいかに失われ、人は大衆の一員と化していくのか

手垢のつき切った議論ではあるものの、人を成功者たらしめる最大の要因はやはり情熱ではないだろうか。
努力は当然のように怠惰に勝り、情熱は努力に勝る。
しかしここでは成功者がどうやって成功者になったかについて筆を進める意図はない。そのような書籍は巷に溢れているから(別に成功者の細かいエピとか知らないし)。

むしろここでは我々について書きたい。一度は何者にかなれるとの幻想を抱いていた(若しくは辛うじてその望みを紡ぎ続けている)我々が、いかに情熱を失っていくかを。

30代も半ばになって気付いた事の一つが、新たな物事に対する新鮮な好奇心、課題に対して正面から誠実に向かい合おうとする力が、ある日を境にめっきり影を潜めてしまったという事だ。
大学生の時は夏の間中、ずっと熱中していたゲームにどうしても身が入らず、新人の頃はあんなにも身につまされていたような、新たな受注案件に対してもどうしても身が入らない。

こういった類の話は枚挙にいとまがない。
これには無論、幾つかの要因があるだろう。そもそも目新しい対象が減ってきた(一通りのことは経験し一通りのものは買ってしまった)事や、何かに情熱を傾けるだけの精神力と体力が無くなってくる事は、すぐさま思いつく。

最も気になっていることは、どうやら歳を取れば物事に対して受動的になりがちだという事だ。

一般的には、若い頃の人生のほうがシンプルだ。独身で、義務も少ない。つまり外圧に対して、それを処理するだけの体力が上回っている。いつしか人はその関係が逆転する。個人差はあるだろうが、そのタイミングが30代後半から40代前半にかけて来るパターンが多いのではないだろうか。
仕事においてはなぜか経験を積めば積むほど、仕事の量は爆増する。特にサラリーマンという形態を選択している層はそうだろう。高い給料と引き換えに、膨大な範囲の仕事と、会社という巨大な組織を動かすためのありとあらゆる雑務を引き受けさせられる。家庭においてもそうだろう。恐らく子供が生まれるというイベントは人に全ての夢を忘れさせる口実を与えるだろう(無論、子供を育てるという事は極めて素晴らしい行為である)。子供がいなかったとしてもパートナーの存在は、善かれ悪かれ何かしらの義務を生む。
人が最もパフォーマンスを発揮するのは、一つのことに集中し続けているときだという過程を前提とするのであれば、10秒に1度通知が来る会社のコミュニケーションアプリと、5分に1度通知が来るメール、次から次へと入る会議と、突然の仕事の依頼の電話、その中でこなす部下が処理しきれなかった書類仕事、そしてパートナーからの無邪気なコミュニケーション・・これらを常に同時並行的にこなしながら、能動的に情熱をもって何かに取り組むことは極めて難易度の高い所業だと言わざるを得ない。
結局人は、やれと言われたことをやり続けると受動的で消極的になり、自分がやりたいと思っていることをやっているときが能動的で情熱を持って取り組めるものなのだ。
この閾値-外圧と処理量との大小関係-を超えるという事がすなわち、人が情熱を失っていく過程という事ではないだろうか。
やらねばならない事に汚染された世界では、やりたい事すら、輝きを失うのだ。

最後に一つ、人のライフサイクルという話とは別に、世相の話もしたい。
もしかするとこれは、僕が歳を取り、周りにそう言った人が増えたという事なのかもしれないが、世間のノリとしても、脱情熱な気がしてならない。
少なくとも自分が仕事を始めた10年以上前には、頑張って一旗揚げてやるという風潮が、上から下まで職場にも蔓延していた。そこには土日もなかったしプライベートもなく、かなりの数の人が能動的に情熱的に仕事に取り組んでいた。
一方、時代が変わり昨今、そういった風潮は鳴りを潜めているのではないかと感じる。
仕事とプライベートにくっきりとした線が引かれ、そこまで色々な事を頑張らなくてもよいという空気が少なくとも僕のいる会社には散見される。
これはほかの会社やコミュニティでもそうなのだろうか。

もしもそれに考察を加えるとするのであれば、自分の努力に対する対価の弾力性が、昔よりもはるかに小さいと全員が感じるようになったのかもしれない。ちょっと頑張ればたくさん対価を得られるのであれば、みんなが頑張る。
これはきっと、経済的な、景気的な問題だけではない。今の社会は極めてクリーンになりつつある。特に僕の世代を境目に、例えば社内不倫などしている人は昔に比べるとかなり少ないし、夜遊びしている人も少ない。醜く太っている人も少なくなり、世は筋トレブームだ。僕たちはこの世界でずっと、清潔であることを求め続けられている。清潔であるという事は、要は人間の根源的な欲求を捨て去れという事と、かなり近いと、僕は思う。逆に情熱というのは、僕はそういった根源的な欲求に端を発するケースがかなり多いと考えている。
今の僕たちは、膨大な外圧にさらされ続けながらも、同時に僧侶のように高潔な生活を求められているのだ。
もしかするとこれが、世間全体が脱情熱(・・という事象が正であるのであれば)にシフトしている原因なのかもしれない。

迫りくる外圧に抗いつつ、日常の中で情熱を再度育てていく―
要は逆転していくにはどうすればよいのか。
目下僕が、最後のあがきとして取り組もうとしているのはそういった類の問いであり、これはその備忘録であったりする。

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