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『ザ・パシフィック』ペリリュー戦車戦
『ザ・パシフィック』 は、実話を基に太平洋戦争における米海兵隊員達と日本軍の死闘を描くテレビドラマシリーズ。 ペリリュー島での戦闘は苛烈を極めた。 私も慰霊祭へ行き、戦跡を訪ねた。 砲塔の吹っ飛んだ九五式軽戦車の残骸を見て元戦車乗りとして胸が痛んだのを覚えている。 動画の戦闘シーンの解説。 日本軍は第一号反撃計画に基づき、ペリリュー島指揮官中川大佐が反撃の有力戦力として温存していた95式軽戦車を伴った決死斬込隊による反撃をおこなった。 17両の95式軽戦車の車体にはロープがまかれ、そのロープを歩兵が掴み戦車跨乗での出撃となった。 中川大佐の期待も大きく、出撃する戦車隊に対しいつまでも手を振っていたという。 ペリリュー島に配置されていた95式軽戦車隊は第14師団直轄の戦車隊であり天野国臣大尉が率いていた。 天野の隊長車の砲塔側面「さくら」とペンキで記されており、他の車輌も識別し易いように1輛ごとに名前がつけられ、「さくら」と同様に砲塔側面に車名が記されていた。 戦車隊は連日の猛訓練により、800mの距離でも100発100中の命中率を誇っていた。 天野は自ら先頭車に乗り込むと整備中の1輛を除いた16輛で最高速度45km/hで目標の西海岸に突進していった。 天野の戦車隊は第1海兵連隊と第5海兵連隊の中間点あたりに進撃してきた。 海兵隊は今まで太平洋の各戦場で日本軍の無謀なバンザイ突撃を何度となく撃破してきたが、この反撃は戦車と歩兵が見事に連携した攻撃であり、今までの日本軍とは違って非常に手ごわいと感じたという。 しかし、突進してきた戦車隊をM4中戦車が待ち構えており、訓練度に勝る95式軽戦車の砲弾は次々とM4中戦車を捉えるが貫通することができず、逆にM4中戦車の75mm砲は易々とわずか12mmの95式軽戦車の装甲を貫通し次々と炎上させた。 天野は軽快な動きを活かしてM4中戦車の側面に回り込んで砲弾を浴びせたが、それでも豆鉄砲のようなもので貫通できなかった。 また、サイパンの戦いで、日本軍の戦車第9連隊の戦車を多数撃破した新兵器バズーカがここでも猛威を振るって、戦車隊は目的の海岸に達する前に大損害を被り、海岸付近まで達することができた戦車はわずか6両で、その6両も集中砲撃や勇猛な海兵隊員による白兵戦で次々と撃破され、生き延びたのはわずか2両と壊滅し反撃は失敗に終わった。
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行進曲『大空』
行進曲「大空」は自衛隊に入隊したら行進の訓練で延々この曲で行進したため、今でも「大空」を聞くと歩調をとってしまう。 私は陸上自衛隊の行進曲といえば「大空」なのである。 「抜刀隊」とか「陸軍分列行進曲」とかで行進したことが私の記憶にない。 無いはずである、戦車乗りは徒歩行進しないからね。 戦車で観閲行進したら行進曲は聞こえないし行進曲は「祝典ギャロップ」だからね。 作曲者の須摩洋朔は自衛隊の一等陸佐であり、旧陸軍の軍楽大尉であった。 戦前は帝国陸軍において軍楽兵の道を歩み、「南方軍軍楽隊隊長」として太平洋戦争(大東亜戦争)終戦を迎えた。 戦後は「日本交響楽団(現:NHK交響楽団)」のトロンボーン奏者を経て、「警察予備隊総隊総監部仮分遣隊」・「保安隊音楽隊」・「陸上自衛隊中央音楽隊」の創設に尽力、これらの初代隊長を務め、また多くの自衛隊制式曲を作曲した。 1951年(昭和26年)に警察予備隊の音楽隊たる「警察予備隊総隊総監部仮分遣隊」(1952年(昭和27年)に「保安隊音楽隊」、1954年(昭和29年)に「陸上自衛隊中央音楽隊」と改称)を創設、これらの初代隊長となる。 陸自では中央音楽隊長として「大空」・「祝典ギャロップ」・栄誉礼冠譜「栄光」(旧制式)・「巡閲の譜」および各種らっぱ譜などを作曲。 「大空」・「祝典ギャロップ」は公式行進曲として観閲式、「巡閲の譜」は自衛隊の制式儀礼曲として栄誉礼、各種らっぱ譜は現在においても自衛隊で広く用いられている。 各種らっぱ譜 は「起床」「点呼」「食事」「会報」「課業(状況)開始」「課業(状況)終了」「消灯(弔銃)」「気をつけ」「休め」等今の自衛隊でも長年使われ自衛官なら知らぬ者はいないラッパで起き、ラッパで食事し、ラッパで国旗掲揚、降下し、ラッパで消灯するのである。