育てるということ
古事記の考察をしていると、ずいぶん気が長い話だな、と思うことがよくある。
彼らが動き始めた理由は、おそらく交易の際の中継地点として安全な場所が欲しかったからだろう。目的があるということは、その時点で困っていたはずだ。
それにもかかわらず、問題解決のために最初にしたことが、必要な教育を受けた子を育てること、なのだ。
必要な教育を持っている家と互いに子を生し、孫がその家で育てられ、その教育を持ち帰って次の子を育てる。目的のために動き出すまでに50年はかかるだろう。
そして、治めると言っても武力で制圧するのではない。その国で子育てし続けるのだ。
この気の長い計画を見ていると、縄文時代の木の話を思い出す。
何で読んだか忘れたが、縄文時代、大きな建物を建てるためには、大きな木材が必要であり、そのために計画的に木を育てていたらしい。
古代人は、『育てること』をとても大事にしていたのではないだろうか。
これも自説ではあるが、古代人は実は多くの知識を有していたと思われる。
こういった知識を、正しく伝え、正しく使い続けるためには、それらの知識を扱う『人間』を育てることが大事である、と古代の日本人は考えていたのかもしれない。
問題があれば、それを解決するために必要な人材を育てる。
それも、子どもの時からの教育によって育てるのだ。
そうすることで、子どもは自分の子を同じように育て、結果的に継続的に人材が育つ。
時間がかかるように見えて、それが一番確実だと、古代人は気づいていたのだろうか。
縄文人は戦わなかったという話があるが、問題解決の方法が『育てること』であれば、たしかに戦う必要などないだろう。
私たちも、『育てること』をもっと大事にするべきなのかもしれない。
といっても、それは単に子どもがどんな知識を得るかという話だけではない。
これから生まれてくる子どもたちが、次の子どもたちを育てることができるように育てる。それが、未来につながる『育てること』なのではないだろうか。