古事記考察③内色許男命と日子坐王
※こちらの古事記考察は独自解釈になります。
≪ここまでの流れ≫
大倭の血筋が作られ、五代天皇が【オキ】へ行き、【オキ】で生まれた七代天皇が【十市】へ行き婚姻をした。【十市】の女性との間に生まれたのが八代天皇である。
(【オキ】と【十市】は仮の地名。のちに古事記内の別名に置き換えます。)
『欠史八代』と一言でまとめられるが、その内容は全く同じではない。
二代から六代天皇は婚姻相手が一人、七代で複数になり、八代では「内色許男命」の血筋の子孫について、九代では「日子坐王」の子孫について細かく書かれている。
このことから分かるように、八代、九代天皇については、内色許男命と日子坐王についての解釈が重要となる。
また、これまで四、六、七、八代の天皇の和名についていた『大倭』は、八代天皇を最後に、九代天皇・若倭根子日子にその形跡を残しつつ、十代天皇以降では使われなくなる。
そして九代天皇で欠史八代も終わり、十代・崇神天皇以降は事績が書き残されるようになる。
ここでは、これらのことについて考察する。
八代天皇は、内色許男命の妹と娘を娶っている。妹を娶って生まれたのが九代天皇なので、ここでは妹との婚姻に注目する。
九代天皇は内色許男命の娘を娶って、十代天皇を生んでいる。
八代天皇と九代天皇がどちらも内色許男命の娘を娶っているのは、それほど内色許男命の血筋が重要だったのだろう。
『八代天皇が内色許男命の妹を娶り、九代天皇が内色許男命の娘を娶る』という婚姻の形は、二代・三代天皇と似ている。
そこで、仮説を加えたい。
・内色許男命はヤマトトモモソビメを娶って娘を得た。
ヤマトトモモソビメは七代天皇の娘であり、八代天皇の妹と言える。すると、次のようになる。
『八代天皇は内色許男命の妹を娶り、九代天皇を得た。内色許男命は八代天皇の妹を娶り、娘を得た。九代天皇は、内色許男命の娘を娶り、十代天皇が生まれた。』
この構造は、二代天皇と波延が大倭を作った時と同じだ。八代天皇と内色許男命は、共同でひとつの血筋を作ろうと約束したのではないだろうか。
そして婚姻を重ねて十代天皇を誕生させた。十代天皇以降で大倭の名が使われなくなるのも、この新しい血筋を大倭とは分けて考えたためだろう。
では内色許男命とは誰なのか。
おそらく八代天皇が【十市】を治めようとしたときに現れたのが内色許男命だ。ふたりは共同で血筋を作り、共同で【十市】を治める約束をした。
十代天皇は「大毘古命」の娘を娶って十一代天皇を得ている。大毘古命は八代天皇と内色許男命の妹の子、すなわち九代天皇の兄弟である。
五代天皇が【オキ】に行った際に、大倭は六代天皇に、【オキ】は天押帯日子命に任されたように、新たな血筋は九代天皇に、【十市】は大毘古命に任されたのではないだろうか。そして、六代天皇が天押帯日子命の娘を娶ったように、十代天皇が大毘古命の娘を娶ったのだ。
こうして十市を治める約束をし、新たな血筋の十代天皇も生まれた。ところが、これでめでたしめでたし、とはならなかったようだ。ここから内色許男命や大毘古命とは関係のない婚姻が続く。
そこにかかわってくるのが「日子坐王」だ。
日子坐王は九代天皇が「日子国意祁都命」の妹を娶って生まれた子である。九代天皇は、内色許男命の娘を娶って十代天皇を生む一方で、日子国意祁都命の妹を娶って日子坐王を生んでいたのだ。
十一代天皇は「日子坐王」の娘を娶るが、その子は天皇になれず、日子坐王の孫娘を娶って十二代天皇とした。それほど日子坐王の娘との婚姻が重要だったのだろう。
それを裏付けるように、古事記には九代天皇の系譜とならび、日子坐王の系譜が詳細に記されている。
この系譜は、息長帯比売命にいたるまで続く。息長帯比売命は、十四代天皇との間に十五代・応神天皇を生んだ女性である。
ここで疑問となるのは、
・日子坐王との血縁がなぜ必要なのか。
・それがなぜ息長帯比売命までかかったのか。
ということだ。
【続く】