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わたしはわたし

 私の「好き」は無自覚のところから始まる。
 私はきっと、自分の「好き」に無頓着なのかもしれない。「好き」と自覚するまで、結構な時間がかかることが多い。

 例えば私は私の「好き」が集まった店を見つけても、名前をなかなか覚えない。あの場所にあるあのお店にあるあれ、というような感じだ。だから何度か、その場所から移動してしまって、あるいは無くなってしまって、探す手立てもないようなこともよくある。

 そういう時は無くなってしまったことに寂しさを感じるのだが、そこまで深く落ち込みはしない。でも私の中にずっと、ある。

 すると不思議なことに急に見つけたりするのだ。何年も経って。

 それは私の中の縁が切れてなかったのだと思う。私に必要なものなのだと。だから再び出会えた時には、しっかり名前を覚える。認識する。

 しかし、それが服の場合、なかなか身につけるまでいかなかったりする。

 私はかわいいものが好きだ。やさしいピンクだったり、フリルだったり、リボンだったり、キラキラだったり、レースだったり。でも自分にはなんとなく「似合わない」と感じていて、そういうものを身につけている自分はいかにも「着させられている人」になってしまっていると感じた。

 でもそれは他人からの自分への評価で、気にすることではなかったと今となってはわかるのだが。

 自分の好きなもので自分のまわりを飾り立てて何が悪いのか。好きなものに囲まれることに、どうして他人の許可が必要だと思っていたのだろう。

 自分の「好き」は自分しかハッキリわからないというのに。自分でしか自分の「好き」で自分のまわりを溢れさせることはできないのに。

 そして自分で自分のまわりを「好き」だらけにした時、驚くほどの平穏が自分に訪れる。幸せを感じる。満たされる。

 その幸福を知ってしまったら、本当に他人の評価なぞどうでもよくなる。

 それでもなお、私に評価をつけたがる人が出てくる。そういう時は、私はこれがいいのにどうしてそういう押しつけをしてくるのかと悲しくなり、時に怒りになり、拒絶に向かう。もうしばらくすると、そんなことはどうでもよくなる。再び自分に平穏が訪れる。

 自分を幸せにできるのは自分だけだ。

 自分の感じることに敏感になることで、その幸せはいとも簡単にやって来る。引き寄せられる。

 振り返ればたくさんもがいていたと思うが、そのもがきさえも愛おしく思うぐらい、だから私は今ここにこうしているのだとはっきり認識できる。地に足がつく。

 私は私だ。

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日乃爽
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