授業を数値で評価すること

「授業を数値で評価すること」の何が良くないのか。ちゃんと言語化してみようと思う。というのも、私自身、塾で働いていた時に「数値で評価される」ことを経験しているからだ。子ども達がアンケートを取って、それを元に給与が変わった。当時は、それを当たり前だと思っていたし、営利企業なんだから、それはそれで良いのだとも思う。今回の争点は、公教育でそれをやって良いのか、という話。

授業を正しく評価することなど誰もできない

まず、正しく評価することはできない、という点。教育の成果は、未来(何年後かも不明)にあらわれるので、成果で評価することはできない。ということは、成果ではなく、その授業を何かのものさしで測るしかないということになる。例えば、前述した塾の例で言えば、子どものアンケートである。子どもの満足度を数値化することは可能かもしれない。ただ、「それが良い授業なのかどうか」といえば、違う。教員を「サービス業」として捉え、子どもや保護者を「お客様」として捉えたら、満足度がものさしでも良いのだけれど、公教育はそうではない。
公教育の拠り所は学習指導要領にしかない。ただ、「資質・能力」が身についたかを点数化するのは無理であろう。なぜなら「資質・能力」自体に、多様な解釈が可能だからだ。

数値で評価するということはものさしが必要

百歩いや千歩譲って、正しく評価できたとしても、それで良いのか、という点。ある「ものさし」で評価すれば、それが正しい教育になり、画一化が始まる。つまり教育の多様性が失われるのである。その「ものさし」に沿った教育が良いとされ、それ以外の教育は淘汰されていく。100人が見て100人全員が、「これは良い授業ですね」と言える授業は存在しないと思う。だとすれば、誰かから見た「良い授業」(ひょっとしたら都合の良い授業)が「良い」とされ、それに画一化されていく。

ものさしは「単純なもの」にしかなり得ない


ある「ものさし」を決めるとしたら、それは単純なものでしかあり得ない。なぜなら、誰から見ても公平な数値化の評価が求められるからだ(例えば、黒板に「めあて」という文字が書いてあるかどうか)。複雑なものは、「ものさし」にはなり得ない。資質・能力が身につく授業であったかどうかなんて、複雑なものさしでは、測れない。それこそ、子どものテストの点数で教員の評価を決める、というのは単純で分かりやすいからだろう。
単純で分かりやすい「ものさし」で教員を評価(数値化)していき、公教育が画一化されると何が起きるのだろうか。

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