『現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える』と無秩序な反出生主義
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2020/2/3 12:45 脱字を修正: 反出生主義と「反–出生奨励主義」2文目「生まれてこないほうがよいしれないし」→「生まれてこないほうがよいかもしれないし」
2020/2/3 23:33 誤字を修正: 反出生主義とロボット倫理 2段落2文目「アンドロイドの知覚は人間と異なって機械的でありプログラムされた者」→「アンドロイドの知覚は人間と異なって機械的でありプログラムされたもの」
反出生主義は字義通り解釈すれば生殖を否定する立場であり、このことは当然ながら支持者の間で共通している。しかし共起的に支持される主義主張を考慮すると、反出生主義は一枚岩ではない。主張のうちには、もともとの主義を増強するために後付けで反出生主義を利用していると見られるものもある。
当記事では反出生主義に関連する思想をいくつか取り上げる。取り上げる思想は互いに似ていて両立可能であったり、あるいは両立不可能であったりする。
各思想の説明では「この思想の支持者は〜〜と考える」という文句を省略するが、取り上げる主張全てを筆者が支持しているわけではない。
筆者自身の主義は末尾に付す。
反出生主義の内部的分断
反出生主義の主張は、これら2つの立場に分けることができそうである:
1. デヴィッド・ベネターによる「基本的非対称性」に基づいて論理パズル的に証明された、「人間は生まれるべきではない」という一般論
2. 「私は生まれたことによってこれほどの苦しみを味わわされている」という個人的な苦悩に下支えされた、「私(と私以外の全ての人間)は生まれてこないほうがよかった」という問題意識
「人間は生まれるべきではない」と「私は生まれてこないほうがよかった」は現象として排反ではないが、これらを混同すべきではない。
デヴィッド・ベネターによる「基本的非対称性」は存在する人間とこれから存在するかもしれない人間すべてに適用可能なものとして快苦の非対称性を主張している。ベネターによれば、
・快の存在......良い
・苦の存在......悪い
・快の不在......悪くはない
・苦の不在......良い
であり、存在=生とは "良い『快の存在』と悪い『苦の存在』とのコンビネーション"、非存在とは "悪くはない『快の不在』と良い『苦の不在』とのコンビネーション" である。このようにしてベネターは理詰めで、すべての人間は存在するよりも存在しないほうがより良いと主張している。
ベネターのこの主張に対しては多くの指摘があり、現代思想2019年11月号「考え得るすべての害悪」(小島和男訳)でベネター自身が取り上げている反論以外にも、同書「生きることの意味を問う哲学 / 森岡正博+戸谷洋志」p. 14では、ベネターの主張では「生まれてくることが誰にとって良い/悪いのか」という視点が抜け落ちていると指摘されている。またnote「生きる苦しみよ、こんにちは。『現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える』読書会」では、ベネターは "社会の制度や一般常識に責任のある不幸" と "特定の両親から誕生したことそのものに由来する不幸" とを区別していないとの批判がある。
【木澤】「生まれてきたくなかった」には、「今が不幸だから」というのと「最悪な両親から生まれてきてしまったという血の呪いが耐え難い」という二つの要因があると思うのですが、そこの区別がべネターの議論には欠落してるのが個人的には不満でした。
引用元:生きる苦しみよ、こんにちは。『現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える』読書会
筆者はこれらの批判に加えて、さらに別の意見を提示しようと思う。
ベネターは、論理ゲームとして "存在するかもしれない任意の人間が体験する快苦の非対称性によって存在の害悪を証明すること" に成功していると筆者は考える。しかしながら、この論理ゲームによって "この私自身が今生きていることによって感じている苦悩" が救われることはなく、"こんな私が子供を産む・育てるべきではない"、"こんなにひどいこの世界に生まれてきて苦しむ子供は存在させるべきではない" という問題意識が助勢されるわけではない。
というよりもむしろ、ベネターは任意のまだ存在していない人間が生まれてくるべきではないことの証明をしている(もしくは存在している人間が本当は生まれてくるべきではなかったという有り得ない可能性を正解として提示している)のであって、今存在しているこの私を苦悩から救う思想を提示してくれているのではない。当然のことだ。
ベネターが基本的非対称性によって論理的に証明する「人間は生まれるべきではない」という主張と、「私は生まれてこないほうがよかった(と思うし、こんなに苦しむなら他の人間も生まれるべきではない)」という主張とは、土俵が違うのである。
このように反出生主義には、排反ではないゆえに完全に分断することが難しいながらも、区別することができる2つの立場がある。以下に挙げる周辺思想はそれぞれ前者か後者あるいは双方の主張と関連しており、一部は互いに相容れないような主張である。
反出生主義と動物愛護
動物愛護・ヴィーガニズム
死は苦であり、苦は悪である。動物は苦を感じることができ、人間が動物の肉を食べるために動物を殺したり動物実験や闘牛・闘犬等のスポーツを行ったりすることは悪である。ペット化や動物園も悪である。
反出生主義の後盾を得た動物愛護・ヴィーガニズム
死は苦であり、生を奪うことは悪である。生まれてきた人間は生きなければならないので水を飲み、植物や動物を食べる。動物や動物性の食品を食べないにしても何か食べないと生きていけないので、植物を食べざるを得ない。そして生まれてきた人間は住む場所を作るために、二酸化炭素を発生させたり木を切ったりして環境を破壊せざるを得ない。
生まれてきたからにはこのように他の生命や環境を傷つけることになるのだから、新しい人間が生まれてくることは悪である。
反出生主義とロボット倫理
人間は現在人間の心に近い機能を持ったロボット(アンドロイド)を作ろうとしている。この傾向は人間がアンドロイドに「心」の存在を認められるようになるまで続くだろう。一方、「心」を持ち人間のように振る舞うことのできるアンドロイドには、快苦を「感じる」ことのできる知覚が求められる。叩けば痛がる痛覚を持ち、悪口を言われれば悲しむのが人間的な振る舞いである。
人間はひとたび生まれてくると苦しみを感じないことがほぼ不可能だが、上述の理由により、人間らしく振る舞うことができるような知覚を搭載したアンドロイドもまた、作られることによって必然的に苦しみを「感じる」ことになる。アンドロイドの知覚は人間と異なって機械的でありプログラムされたものであるという意見があるが、人間も同じではないだろうか?
人間もアンドロイドも同様に、苦≒負の報酬を与えられるということは悪である。生まれてきたからには苦を避けることができないのであれば、生まれてくることは悪であり、知覚を搭載したアンドロイドを作ることの倫理的問題を看過してはならない。
参考:
西條玲奈(2019)「『痛み』を感じるロボットを作ることの倫理的問題と反出生主義」, 青土社, 現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える, pp. 146-152
ダニエル・デネットの多元的草稿モデル、クオリア批判(Wikipedia)
反出生主義と「反–出生奨励主義」
人間が「生まれてこない方がよかった」かどうかは人間に分かり得ないため、「生まれてこない方がよい」という命題は真とも偽とも言えない。一方で、「生まれてこない方がよいかもしれないし、生まれてきた方がよいかもしれない」という命題は必ず真である。
「生まれてこない方がよいかもしれないし、生まれてきた方がよいのかもしれない」が真であるならば、「新しい生命を生み出すことはよくない可能性がある」も真である。新しい生命を生み出すことがもしかするとよくないのならば、出生を奨励することは論理的に間違っている。逆に、新しい生命を生み出すことがよい可能性もあるので、反出生(生まないこと)を奨励することも間違っている。
したがって、反出生主義(生まないことを奨励する)は間違っている可能性があるが、反–出生奨励主義(生まないことを奨励することはしないが、生むことを奨励することもしない)は正しい。
反–出生奨励主義は、出生を許したり許さなかったりするようなものではない。出生をただ事実としてそこに在るものであり、他人が子供を生むことやそれを否定することに干渉すべきではないとする。
生まれてくることよりも生まれてこないことのほうが良いかもしれないし、逆かもしれないが、もし生まれてこないことのほうが良いということが正解だったときのために、生まれてくる子供たちのためにせめて償いをする––「マシな地獄を続けていく」ことを正しいとする立場である。
参考:小島和男(2019)「反–出生奨励主義と生の価値への不可知論」, 青土社, 現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える, pp. 84-93
「死という苦悩を内包する生」、トランスヒューマニズムという解決策
死という苦しみは諸悪の根源である。死やその他の苦しみを運命付けられた生を新しく始めることは悪である。そのような生が続くことは悪なので、人間は新しい存在を生まないことによって徐々に絶滅すべきである。ただし、生を始めるべきではなかったということと今ある生を終わらせるべきであるということは別問題だ。死は悪なので自殺することは良くない。
死を超克=不老不死を実現した暁には、新しく生を始めることを許容することができる。トランスヒューマニズムの思想と実践によって、"死という苦悩を運命付けられた生" を克服することができる。
「生という苦悩」、ペシミズム、自殺という解決策
人間は生まれたからには苦を経験しないことができないので、生まれてくることは悪である。当然、生を新しく始めることも悪である。そして、自身の苦悩を終わらせるためには死を厭わない。
人生は自明に虚しいものである。自死するにせよ寿命や病気・他殺によって死ぬにせよ、死ぬと人間はすべてを失ってしまう。すべてを失うことが運命付けられているにも関わらず続く人生は儚く虚しいもので、何をしても失われてしまうなら一切は無駄である。
すべてが徒労であるにも関わらず人生が続くとその分必然的に苦しみを味わうことになる。それなら人生を終わらせるほうがましだ。
しかし人生の虚しさこそが救済にもなりうる。死ねばすべてが失われるなら、人生におけるすべての行為は無意味であるから、何をしてもいい––何もしなくてもいいではないか。
人生に意味がある、人生における行為によって何かを生産しなければならない、働かなければならない、などといった義務感は優生主義を、そして価値を生産しない生の抹消をも誘発する。
参考:
大谷崇(2019)『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』星海社新書
木澤佐登志(2019)「生に抗って生きること 断章と覚書」, 青土社, 現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える, pp. 27-39
(余談)筆者の立場と自分語り
わたしは圧倒的に、「私は生まれたことによって苦しみを味わわされているので私は生まれてこない方がよかったし、新しい生命を生むべきでもない」派だ。つまり、ベネターの論証はおおむね間違っているとは思わないし論理的だが、ベネターの議論とわたしの主義とは土俵が異なる。わたしの主張は個人的な経験に基づいているので、非合理的な部分があるだろう。わたしは完全に論理的に反出生主義を唱えたいわけではない。
反出生主義の主張が間違っている可能性から生まれた反–出生奨励主義は正しい。しかし、反出生主義の主張が間違っている可能性があるかもしれないにも関わらず、わたしの感覚では反出生主義が正しそうな気がしている。反–出生奨励主義を提示した小島和男氏も、「反–出生奨励主義と生の価値への不可知論」(『現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える』pp. 84-93)で、すべての生は害悪であるということが自身の直観にかなっていると述べている。
反–出生奨励主義が正しいということは理屈として受け入れることができるが、わたしの感覚には反出生主義的な思想が根付いている。
わたしは上に述べてきたような様々な思想に触れる前、高校生ぐらいのときから、「無機物になりたい」「必ずしも死にたいとは思わないが、自分のこの意識が消えたらいいのに」「自分が子供を産んだとしたら幸せを感じられるように育てられる自信がないので、わたしは子供を生んだり育てたりすることに関与すべきではない」などと考えてきた(今もこう考えているし、とりわけ「必ずしも死にたいとは思わないが、自分のこの意識が消えたらいいのに」という考えは伊藤計劃『ハーモニー』という小説・映画によって増強された)。
高校3年生から大学2年生ごろにかけて、何故か一時的に生を全肯定したときがあった。「人生に意味はない...?そしたら喜びにも悲しみにも意味がない、成功に意味がないのと同時に失敗にも意味がない、失敗してもいいんだ!」
この発見の後偶然ニーチェの思想に触れ、わたしのその考えはニーチェの肯定的ニヒリズムや超人に近いものだと考えたが、しかしそれでもずっと違和感を覚えていた。
この違和感は、大谷崇氏の『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』を読むことによって2-3年越しで拭われた。わたしが考えたようなことを先に考えていた先人はニーチェではなくシオランだった。人生に意味や達成すべき目的があるなら、それを達成せねばならないという義務感––負債によって、(達成するにせよしないにせよ)苦しみを味わうことになる。しかし意味がないなら、何をやってもいいし、何もしなくてもいいのだ。人生に意味がないということは生の理由になりうる。
現在のわたしはそう思いながらも実行に移せずにいて、現に来春から就職する予定だが、少なくともシオランのこの思想はわたしにとっての救済になった。
「生まれてこなければよかった」ことをベネターのように論証することは可能であり、すべての生が害悪であると主張するためには論証が必要だが、自分ごととして「私は生まれてこなければよかった」と考えている人間が自身や同志を救済するために論証をする必要はない。
シオランは『シオラン対談集』のジャン-フランソワ・デュヴァルとの対談で、自分が何かを書くときは必要に迫られたうえでの内的プロセスを経て生じた結果であること、それを細かく説明したり論証したりしようとする気がないこと、書くということが自身の耐え難い状態に対する一種の治療法であることを述べている。
「私は生まれてこなければよかった」という考えとそれに伴う苦しみに対する処方箋は論証による理詰めの説得ではなく、同志や同志とさえ思える先人が耐え難い状態に対処するために書いた文章を読むことであり、噛み砕いて内的プロセスを自己の中に再現し救済措置とすることだ。少なくともわたしはこの文章を書いていて5時間ほど夢見心地で生きていた。
参考:
大谷崇(2019)『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』星海社新書
小島和男(2019)「反–出生奨励主義と生の価値への不可知論」, 青土社, 現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える, pp. 84-93
シオラン(1998)『シオラン対談集』, 金井裕(訳), 法政大学出版局
主な参考文献
生きる苦しみよ、こんにちは。『現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える』読書会
大谷崇(2019)『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』星海社新書
シオラン(1998)『シオラン対談集』, 金井裕(訳), 法政大学出版局
青土社(2019)『現代思想 2019年11月号 反出生主義を考える』
カバー写真 クレジット: Tal Atlas (Flickr)
筆者Twitter: @hinatal1997