見出し画像

砂山影二の生涯 5

いよいよ最終回です。遺書のことと私なりのまとめをしています。まだまだ、謎の多い歌人ではありますが、数少ない三行書き歌人で函館の啄木一族の墓の近くに歌碑(墓)まで建立されています。もし、興味をもっていただきましたら、函館にお立ち寄りの際には、影二の歌碑まで足を伸ばしていただきたいと思います。
次回からは、『坊ちゃんの歌集』に掲載されている歌について、準備ができ次第、皆様にご紹介できればと思っています。

4 二通の遺書について

 影二の遺留品の中には、二通の遺書があった。一通は、油川鐘太郎宛、もう一通は、行友政一宛である。この二通の遺書について検証し、自殺の原因について検証したい。
 油川鐘太郎宛の遺書は、大正10年5月22日付の函館毎日新聞に掲載されている。その書面は断片的な文字で綴られている。

 「何も言はなかつた事をゆるして呉れ/何かしら兄に告げることが出来得なかったのだ。では、僕はゆく さようなら 連絡船にて 砂山影二」

 この遺書は、連絡船の中で書かれている。行友宅の二階で書かれたであろうものではない。この遺書を読むと疑問が湧く。前出16日付で書かれ油川鐘太郎に宛てた書面との関係だ。「何も言はなかった」「何かしら兄に告げることが出来得なかった」とあるが、16日付の書面にあること以外に言いたいことがあったということか。もう一つ、これも前出の土井多紀子の文にある「今夜海峡で死ぬと云つていたよ」の件である。「死」を示唆することは口にしている。だが、本当の「死」に向かう理由を話せていなかった。裏を返せば、話したかったのだろう。これが、影二を死に追いやる原因の一つだったのではないかと考える。
 影二は、強い「孤独感」を持っていた。それは、境遇からくる「孤独感」だけではない。最初に感じた「孤独」の端緒は、養子に出されたことを知った時点だろう。そこで影二は、「孤独」から脱却しようと仲間を求め始める。中学校を中退し、それまで籍を置いた函館中学校閥の白楊詩社にではなく、あえてライバル関係にあった函館商業学校閥の夜光詩社に求めたのだ。それは、環境を変え、心機一転「孤独」からの脱却を図るためだったのだ。しかし、短歌を通して自分の気持ちを吐露するも、誰もそれを真に受けてくれず、文学上の誇張もしくはフィクションとしかとらえてくれない。そこでより一層、「孤独感」を増長することになって行った。「中野草夢」から「砂山影二」へペンネームを変えた時点と、『櫻草』と『銀の壺』が合併して『海峡』が発行された時点、そして『坊ちゃんの歌集』を発行した時点。この三つの時点で影二の周囲に何らかの変化を感じて、手をさしのべてくれる人がいたら、死なずに済んだかも知れない。
 行友政一宛の遺書は、全文が明らかにされていない。大正10年5月21日付「函館新聞」の記事によると「海峡社の行友政一氏に宛てた遺書は家庭との関係上憚り多いもので機会を待つて発表するさうだが此の場合当分発表出来ないさうだ」とある。その後、その一部は、『海峡』第五輯に公開された。その文面は以下の通り。

 「私の環境が私をして死の道へ誘つた事を思つて下さい。私の短生涯に死は心の全部でした、死は私を永遠に生かす鍵なんです、死は決して私として卑怯ぢやないんです、私の死をあざける人はうんとあざけるがいゝです。死は死に行く人間でなければ到底判らないのです。絶対なんです。永劫に変わらない津軽海峡の雄大な黒潮の低調は私の死より『永遠の生命へ』の序曲を暗黒の裡に顫はしてゐます」(『海峡』第五輯「遺書の片鱗」より)

 これは、影二の肖像写真(前出の自殺直前にとった写真とは別物)の下に掲載されている。掲載の判断は、遺書の持ち主で第五輯の編集兼発行人の行友政一の判断であろう。影二を取り巻く「環境」が死へ誘った。「死は私を永遠に生かす鍵」なのであり、「絶対」なものだ。そして「永遠の生命」の始まりなのである。という内容を読みとることができる。自分の死は必然であることを訴え、ある意味、死の賛美者としての一面を垣間見ることができる。この文面以外は、明らかにされていない。その遺書自体、遺品と一緒に立待岬のどこかに埋められてしまい日の目を浴びることは不可能に近い。
 また、遺書ではないが、伏木丸に残されていた『坊っちゃんの歌集』の巻頭に死に際に影二は、次のような言葉を書き付けている。

 「卑怯な人間と嘲る人間はうんと嘲るがいゝ、何もかもごつちやだ、残されたお前を(歌集坊ちやんを指す)思へば可哀さうだけれど俺はやつぱり死なねばならない、/死は死は/死にゆく人間でなければとうていわからないことだ云々大正十年五月十八日夜十二時」(大正十年六月二十日付・函館新聞)

 これは、影二の友人たちが、船内に遺された品々を埋め、墓碑を建てたことを伝える新聞記事の中に紹介されている。死の直前、自分の分身と言うべき歌集に向かって残した「遺書」と呼べるものだ。孤独な自分の代弁者としての歌集と最期に向き合い書かずにはいられなかったのだろう。良くも悪くもこれから歌壇で何らかの形で評価されるであろう『坊ちゃんの歌集』に「俺はやつぱり死なねばならない」、「死にゆく人間でなければとうていわからない」ことなのだと、親が子に言い聞かせるように語った痕跡である。そしてその後、デッキに出て、時計の針が重なるのを待ち、そこにナイフを突き刺し、漆黒の波間に身を投じたのである。

 

5 自殺の原因について

 影二の自殺の原因は、いくつか考えられる。前述した複雑な境遇や仲間を求めれば求めるほど強くなる「孤独感」。「遺書の片鱗」から読み取れる「死への賛美」。「神経衰弱」という病。そして「女性問題」。当時の新聞でも様々な憶測が飛び交っていた。他の記事に目を通しても現代の新聞と比較するとかなりゴッシプ記事が多い。
 影二が自死を遂げた翌年大正11年2月に発行された『海峡』第五輯「砂山影二追悼号」に影二の短歌12首が掲載されている。彼の死に迫るために必要なヒントが沢山隠されている。その12首が次の通りである。

  わがいのち、この海峡の浪の間に、
  消ゆる日を想ふ、
   岬に立ちてー。

  死ぬことに
  あこがれをもつてゐるのかと、
   たかくとして笑ひしか友よ。

  たつたひとりせうことなさに
  トランプを、
   弄ぶ夜の涙ぐましき。

  わが死なば
  何んと思ふらむ、父は、友は、
   戀せし君は面白くなれり。

  夜中、十二時
  連絡船の甲板より
   海に飛び込むを今日も夢見る

  海に落ち、浪に漂ひ
  われはわれは、
   息たゆるまで歌ふてあるべし。

  いさかひて父と別れし母をふと
  哀れみてみしが
   逢ひたくもなし。

  ずるければ金や儲からむ
  これが吾の父と、
   呼ばねばならぬ人かも。

  さほどにもなき金をありあまる程
  ある如く、
   客に語りて威張れり父は。

  金の指輪、金の時計を持てりとて
  紳士がる父は、
   あさましきかな。

  東京へ行つて見たとて何になる
  櫻散る頃に、
   吾は死なまし。

  ともすれば
  泣きたきばかり胸せまる、
   今日此頃よ、何の故ぞも。

                 ――九日作――

(『海峡』第五輯「私は踊る」砂山影二)

 この短歌を掲載した後に鐘太郎のことばが、次のように続く。「海峡第五輯は、私の約束の寄稿が遅れて砂山氏の存命中遂に發行出来なかつた事は砂山氏に對して實にお氣の毒な次第です。以上の歌は即ち第五輯に掲載される筈であつた、『私は踊る』十五首のなかより三首を行友氏の保存してある自殺の日までの歌數十首より九首を選しましたが『ともすれば泣きたきばかり――』の歌が最後のものです」と附記されている。本来、生前に発表されるはずの短歌だったことがわかる。できれば、当初掲載予定だった「私は踊る」15首全句と行友氏保管の10首すべて掲載してもらいたかったが、この『海峡』第5輯に掲載された12首を見るだけでも、影二の死を意識した心中を吐露した作品群であることはわかる。また、死のわずか10日前「九日作」とあることから、明らかな自殺予告であり、遺書のような役割を担っていると言える。「夜中、十二時/連絡船の甲板より/海に飛び込むを今日も夢見る」自殺した状況そのままである。また、父親に対するこの激情は何か。前述したように、影二は、養父との隔絶を修復したいもしくは、養父の生き方を受け入れたいと考えていたと推測される。しかし、「ずるければ金や儲からむ」と考え、いかにも「金をありあまる程ある」かのように客に威張り、「金の指輪、金の時計」を持って「紳士」ぶる養父をどうしてもゆるせなかったのであろう。その背景には、貧しく苦労している生母の姿があるのかも知れない。義父のことを何とか理解しようとしても結局理解することはできなかったのだ。逆に最期まで、義父のことを理解しようと努力していたことも、この短歌から読みとることができる。
 影二の死後一年半後に発行された『海峡』第7輯に「岬」と題され「故砂山影二」の遺稿として7首が掲載されている。

  岬、岬、ゆふべは悲し
  君が肩に手をのせて
  われは歌ひつゞくる。

  いとしいとし、いとしき君を
  かい抱き
  頬を黒髪に埋めて泣けり。

  強く強く抱き合ひつゝ
  これやこの
  夜の岬にわれらは泣けり。

  ゴンドラの唄
  うたひ終りてひしとばかり
  君を抱けり、抱きしめけり。

  君が名を
  ひそかに呼べど、いらへせず
  たゞに抱きて泣きてありけり。

  短かきはわれらがいのち
  燃えて燃えて
  燃えて果てなむ、君を抱きしめ

  帰り路、
  立ち止まりては幾度か
  君を抱きしめくちづけをせし

一九二一、五、一三、の思ひ出に

 この掲載について、『海峡』第8輯に行友政一が次のように説明している。「前號に発表した砂山影二の遺稿(岬)は私の保存してゐたもので、発表に當って兎角の議論を醸したが海峡の成長の為に生前隨分盡して呉れた彼の追憶の為に(海峡)の再生を紀念する第七輯に思ひ切つて彼の遺稿として発表したものだ」この説明だと、当初第五輯に掲載予定だったものとは別物と考えられる。最後に附記された「一九二一、五、一三、の思ひ出に」から考えて、第5輯の「九日作」よりも新しい作品となる。影二がどのような形で行友に預けた作品であるかははっきりしないが、その内容から公開することを躊躇していた作品であることは確かだ。影二の死後、新聞紙上を賑わせた情人のことを気にしてであろうか。新聞記事には次のように述べられている。

「彼には情人があつた、名は一寸憚るが○谷○○子とて今は小樽に然る人の妻として嫁いで居るとか、彼は熱烈な恋をした想思想愛の甘い歓楽に酔ひ会ひ会ふ日を楽んで居たことも事実である」(大正10年5月21日付「函館新聞」)

 もし、これらの短歌に詠まれた人物と記事にある人物が同一人物だとしたら、どうしてこのタイミングで公開するに至ったのかそれも不思議である。しかし、第五輯にある行友政一の次の文にヒントがある。

 「一部の人等は戀愛に關聯した死と、早計にも論斷してゐるが、彼にはさうした原因の少なくとも無かつた事を、私は彼に代つて世の人々に高唱する。私に宛てた彼の遺書が明白に、此の事實の左証となるのであるが、私は暫く緘黙の中にこれだけを附記して、さうした謬見を除去したく思ふのである。」(『海峡』第五輯「亡友砂山影二を悼む」より)

 きっとこの後も「戀愛に關聯」した死であったとの憶測が飛び交っていたのではなかろうか。その相手は小樽に嫁いだ人妻の「○谷○○子」であると決めつけたような噂が巷で流れていたのではないか。もし「五月十三日」にこの人妻が函館を訪れていたのなら別だが、これらの一連の恋愛歌を発表することで逆にこの噂をかき消す意図があったのではないか。それによって、影二を影二の作品で守ることができる。影二の死の真相を知り得る行友政一であるからこその遺稿発表であったと推測する。もしこの歌の「君」が小樽の人妻であれば、影二の尊厳を守ろうとしていた行友の行動としては不可解である。行友は次のように影二の自殺の原因を書いている。

 「最后に彼の死は、總てに依つて災はひされた彼の性格の破産が、最も深く起因したのだと判ずるが、一番當を得たものとして私も首肯したいのである。自分自身に信頼し難くなつて、自身を極度に恐れ呪ふてゐた彼を、私はぢつと涙の眼に想起してゐる。」(『海峡』第五輯「亡友砂山影二を悼む」より)

 行友によると自殺の一番の原因は「性格の破産」であり、自分自身に自信が持てないでいた日々の影二の様子からと断言している。行友に宛てた原稿紙七枚の遺書に書かれている内容を知っているから、逆に影二を擁護しているのではないかと勘ぐることもできるが、ここは素直に受けとりたい。きっと遺書には、家庭環境のことや死への憧れ、ひょっとしたら恋愛のことなどさまざまなことが書かれていたに違いない。しかし、大元にあるのは影二の「性格の破産」なのである。補足的に言えば、「神経衰弱」という病気が起因した「性格の破産」が一番の原因なのだ。遺書を公開したからと言って、自殺の原因が明らかにはならない。それよりもそのことによって想定される影響の方が大きい。だから、公開せず墓標の下に埋めたのである。
 影二の自殺の原因が、この「性格の破産」であると断定するのは些か乱暴である。この「性格の破産」をもたらしたのは、その複雑な境遇と真面目さ故に陥った「孤独」が原因なのではなかろうか。「死を賛美」しているように思わせる一面もすべてここに起因している。「恋愛」のことも影響しているかも知れない。人を愛してもその「孤独」は癒やされなかった。「孤独」に起因していると考えることで自殺の原因の説明がつく。よって、影二の自殺の原因は、「孤独」によってもたらされたものと言えるのだ。

第四章 まとめ

 砂山影二の死の一ヶ月後、大正10年6月18日に親戚と海峡詩社人々によって高龍寺にてしめやかに執り行われた。翌19日海峡詩社主催で追悼法要が立待岬にある地蔵堂にて行われ、その後、啄木の墓の近くに遺留品や写真などを瓶に入れ埋葬し、『坊ちゃんの歌集』の巻頭歌を書いた墓碑を建てた。その後、昭和43年5月18日の命日に現在ある場所に歌碑を建立し、墓碑を移したのである。
 影二の遺体は、青森県の蟹田村(現在の蟹田町)に漂着し、村役場で仮埋葬したが、家族はその遺体の引き取りに赴かなかったと新聞記事にあり、現在、蟹田の地に眠っている可能性がある。ただ、その後、別の新聞で影二の葬儀について報じられているが、そこに「出棺」と書かれていることから、最終的には函館の地に戻ってきている可能性もある。どちらにせよ現在の歌碑の下には眠ってはいない。
 砂山影二研究は、まだ始まったばかりである。調べると次から次へと新しい資料が出てくる。最近になって最初に出版された『坊ちゃんの歌集』と別な形で出版されてた『坊ちゃんの歌集』の存在するが明らかになった。それは、岩手県立図書館と函館市文学館にある。赤い表紙はなく題名と副題に「砂山影二遺書」と記されものが表紙となり、サイズも7.5センチ×10センチと一回り小さいサイズとなっている。右側紐綴、油川鐘太郎の序から始まり、伊東酔果、井本金太郎、保坂哀鳥、若枝草三郎、奈良愁果、日下部浪二、行友政一の歌に続き、影二の「わがいのち……」の巻頭歌、扉がある。基本的にオリジナルの本編と同じ内容だが、活字は新たに組み直したもので、句読点や濁点の有無という些細な違いはある。一行書きの歌を一頁三首組にした関係で、総ページ数が158頁となっている。奥付にあたる部分には「非売品」「以印刷代謄寫」「本書御入用の方は立待岬佐々木傳蔵氏宅まで御申出下さい。」とあり、裏表紙には「函館市蓬莱町103/函館印刷/オドサンセイ」とある。「オドサン」とは、中野活版所の職工長「白瀬由太郎」のことで、生前影二が「オドサン」と呼んで慕っていた。白瀬は、影二の死の翌年大正11年4月に独立し「函館印刷会社工場」を蓬莱町で起業している。大正十二年の『函館商業会議所年報』によると、従業員数九名とあり、中野活版所の七名より多い。白瀬由太郎は、陰日向でいつも「坊ちゃん、坊ちゃん」と影二の味方となり、支えてくれていた。前出の土井多紀子氏の文章には次のような記述がある。

(影二の死後)「中野家の父上は『どこ迄も親不孝だ』と憤られたそうです。そして『死体のないものの葬式など以ての外である。死体の見当らぬのは処何かに生きているに違いない』と相手にされないと聞き及びました。『オドサン』が握りこぶしで涙を拭いながら『坊ちゃんが可哀想だ、坊ちゃんが可哀想だ』と声も途切れ勝ちでした。」(『海峡』125号「坊ちゃんの想出」より)

 このことが直接的な原因だとは断定できないが、影二の死とその後の対応が、白瀬の独立を促したことには間違いない。白瀬は独立後どれくらいたってから制作したのかは判らないが、『坊ちゃんの歌集』を再び世に送り出すため、それも「砂山影二遺書」と副題を付して、活字を組み直し、それを影二の墓がある立待岬の佐々木傳藏に窓口になってもらい、配布した。佐々木傳藏については、何も明らかになっていないが、影二ともしくは白瀬や行友と何らかの繋がりのあった人物であろう。このように冊子として発行された二冊の『坊ちゃんの歌集』は、影二の手により生前に発行されたものと、死後、白瀬由太郎によって発行されたものとが存在する。この二冊に収録されている影二の短歌については、すべて比較検証したが、句読点の有無や明らかなミスプリント、活字の違いによる字体の違いは見られるものの、すべて同一作品の掲載が掲載されている。
 この他にもこの世に存在しないと考えられていた『海峡』第5輯の発見など、まさに掘り起こすことが、この論文書く原動力となった。後年、歌碑建立にまで至る経緯など、影二の人間的な魅力だけでそこまで至ったのかなど、検証して行く必要があるだろう。今後は、更なる掘り起こしと作品研究へと進めていき、後を追って研究してくれる研究者が現れるよう世に問う機会を窺っていきたい。   (了)


【参考文献資料一覧】

〈砂山影二作品掲載テキスト〉 ※発行年順
・『銀の壺』創刊號(大正七年四月・夜光詩社)
・ 『銀の壺』第二號(大正七年六月・夜光詩社)
・ 『銀の壺』第三號(大正七年九月・夜光詩社)
・ 『銀の壺』第四號(大正七年十一月・夜光詩社)
・ 『銀の壺』第五號(大正八年三月・夜光詩社)
・ 『銀の壺』第六號(大正八年五月・夜光詩社)
・ 『銀の壺』第七號(大正八年七月・夜光詩社)
・ 『櫻草』No5(大正八年七月・櫻草詩社)
・ 『櫻草』BAND6(大正八年・櫻草詩社)
・ 『銀の壺』第八號(大正八年十月・櫻草詩社)
・ 『銀の壺』第九號(大正八年十二月・夜光詩社)
・ 『生命之樹』第四號(大正八年十二月・生命之樹社)
・ 『櫻草』BAND7(大正九年一月・櫻草詩社)
・ 『銀の壺』第十號(大正九年三月・夜光詩社)
・ 『櫻草』BAND8(大正九年六月・櫻草詩社)
・ 『生命之樹』第六號(大正九年七月・生命之樹社)
・ 『海峡』第一輯(大正九年八月・海峡詩社)
・ 『海峡』第二輯(大正九年九月・海峡詩社)
・ 『海峡』第三輯(大正九年十月・海峡詩社)
・ 『海峡』第四輯(大正十年三月・海峡詩社)
・ 『坊ちゃんの歌集』(大正十年五月・海峡詩社)
・ 『海峡』第五輯(大正十一年二月・海峡詩社)
・ 『海峡』第七輯(大正十一年十一月・海峡詩社)
・ 『海峡』No59(昭和三十四年十一月・海峡評論社)

〈参考文献〉 ※発表年順
・ 行友政一「編輯余録」(大正十一年十二月『海峡』第八輯・海峡詩社)
・ 行友政一「夜光詩社と海峡詩社」(昭和十二年二月『函館歌壇史』無風帯社)
・ 宮崎郁雨「『海峡』と啄木」(昭和二十二年一月『海峡』一月號・海峡評論社)
・ 油川鐘太郎「啄木襍記」(昭和二十二年二月『秘められし啄木遺稿』・新星社)
・ 白山友正『北海道歌壇史』(昭和二十五年十二月・短歌紀元社)
・ 山田稲果「銀の壺の若人たち」(昭和三十四年五月『海峡』No53・海峡評論社)
・ 井本金太郎「砂山影二」(昭和三十四年六月『海峡』No54・海峡評論社)
・ 山田稲果「中野草夢をめぐる人々」(昭和三十四年七月『海峡』No55・海峡評論社)
・ 越崎宗一「油川鐘太郎さんのこと」(昭和三十四年十月『海峡』No60・海峡評論社)
・ 行友政一「故砂山影二墓碑再建記」(昭和三十七年七月『海峡』No90・海峡評論社)
・ 伊東酔果「砂山影二に合掌す」(昭和三十七年七月『海峡』No90・海峡評論社)
・ 伊東酔果「夜光詩社から海峡詩社へ」(昭和三十八年五月『海峡』No95・海峡評論社)
・ 土井多紀子「坊ちゃんの想出」(昭和四十三年五月『海峡』No125・海峡評論社)
・ 行友政一「砂山影二の歌碑」(昭和四十三年七月『海峡』No126・海峡評論社)
・ 行友政一「砂山影二の生い立ちと歌集(一)」(昭和四十四年七月『海峡』No132・海峡評論社)
・ 行友政一「砂山影二の生い立ちと歌集(二)」(昭和四十四年九月『海峡』No133・海峡評論社)
・ 相沢勝三郎「砂山影二の歌碑」(昭和四十九年十一月『函館のいしぶみ』・道南の歴史研究協議会)
・ 『定本 吉井勇全集 第八巻』(昭和五十三年六月・番町書房)
・ 北海道歌人協会編『北海道短歌事典』(昭和五十五年六月・北海道新聞社)
・ 福地順一「啄木と海峡詩社のことども」(昭和五十七年二月七日付『朝日新聞』)
・ 油川木の実「おぼろ鐘太郎記」(昭和五十七年十月『文人』5号・文人の会)
・ 町田等監修『定本 中山晋平』(昭和六十二年五月・郷土出版社)
・ 古茂田信夫他『新版日本流行歌史 上』(平成元年九月・社会思想社)
・ 復刻版『長田幹彦全集 第八巻』(一九九八年二月・日本図書センター)
・ 函館ルネッサンスの会編『函館文学散歩』(二〇〇七年十二月・函館ルネッサンスの会)

〈参考資料〉
・ 函館市史デジタル版
〈http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/shishi_index.htm〉
・ 函館商業会議所年報 大正二年版、大正四年版、大正五年版、大正六年版、大正七年版、大正八年版、大正九年版、大正十年版、大正十一年版、大正十二年版、大正十三年版、大正十四年版、大正十五年版
・ 函館商工会議所年報 昭和二年版、昭和三年版、昭和四年版、昭和五年版、昭和六年版、昭和七年版、昭和八年版、昭和九年版、昭和十年版、昭和十一年版、昭和十二年版、昭和十三年版、昭和十四年版、昭和十五年版
・ 函館日日新聞 大正十年五月二十日付、同月二十五日付、六月三日付、同月十九日付
・ 函館新聞 大正十年五月二十日付、同月二十一日付、同月二十三日付、同月二十四日付、同月二十八日付、同月三十一日付、六月二日付、同月十日付、同月十四日付、同月十七日付、同月十八日付、同月二十日付
・ 函館毎日新聞 大正十年五月二十日付、同月二十一日付、同月二十二日付、同月二十三日付、同月二十五日付、同月二十七日付、同月二十八日付、六月三日付、同月七日付、同月十二日付、同月二十二日付、同月二十三日付
・ 北海道新聞 昭和四十一年十一月九日付
・ 『大日本職業別明細図 第三三一號 北海道 函館市』(昭和八年八月・東京交通社)

いいなと思ったら応援しよう!